勝海舟アメリカに行く!
幕政に参加できるようになった勝海舟は、ようやく夢がかなったのでした。しかし喜んでばかりはいられません。長崎伝習所を創設したり、アメリカへ渡ったりと大活躍が始まります。
長崎伝習所での勝海舟
任命されたその年に、勝海舟は日本自前の海軍が必要だと長崎に「長崎伝習所」を創設します。そこはオランダ人を講師として(オランダ人は長崎の出島から出られなかったので、必然と長崎できた)軍艦の操縦・造船というだけではなくて、医学・語学・科学なども教育がされていました。有名なところでは「ポンペ・ファン・メーデルフォールト」の医学教授は日本において近代医学の始まりともいえるものですよ。現在の長崎大学の元となったといわれていますね。
オランダから寄贈された「観光丸」や、オランダに委託して作ってもらった「咸臨丸」「朝陽丸」、独自に帆船なども作り、幕臣だけでなくたくさんの藩の藩士などが集まってきましたよ。勝海舟は3年間ここに滞在します。
安政5年(1858)海舟は薩摩を訪れ、江戸にいたときに知り合った「薩摩藩藩主・島津斉彬」と会い、これからの日本のことについて話し合い影響を受けたといいますよ。そこで西郷隆盛と知り合ったのでしょう。この年に幕末の大事件「安政の大獄」が「大老・井伊直助」によって幕府の方針に逆らう水戸藩主をはじめ知識人などが粛清されていきますが、長崎にいたために勝海舟は無事だったのですね。
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勝海舟と咸臨丸
安政6年(1859)もう日本人だけで大丈夫だろうということになり長崎伝習所は閉鎖されて、勝海舟は築地にできた軍艦操練所の教授方頭取となることになり、江戸に戻りました。
翌年に幕府は「日米修好通商条約締結」のための使節団をアメリカへ派遣することになります。勝海舟はすぐさま立候補をしたのは言うまでもありません。使節はポーハタン号と咸臨丸で出発。勝海舟は咸臨丸に乗っていました。艦長は軍艦奉行・木村喜毅。通訳は、土佐の漁師で難破したためにアメリカに保護され教育を受けたという「ジョン万次郎」。木村喜毅の付人として「福沢諭吉」が乗っていましたよ。
品川出発・1月13日。アメリカ到着・2月26日(新暦で3月17日)。サンフランシスコ発・閏3月19日(5月8日)。品川帰着・5月6日。全日程140日。福沢諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と言っていますが、アメリカ海軍の測量船フェニモア・クーパー号艦長・ジョン・ブルック大尉が、船酔いの勝海舟の代わりに操舵したともいわれていますね。
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勝海舟と福沢諭吉
福沢諭吉といえばミスター1万円札!慶應義塾の創設者として有名ですが、勝海舟とは晩年まで仲が悪かったといいますね。勝海舟が船酔いで航海に役に立たなかったと言ったのも福沢諭吉だったとか。バンカラでベランメエな勝海舟が言いたい放題だったのが、かなり気に障っていたようですよ。
明治になって『時事新報』で書いた『痩我慢(やせがまん)の説』では、三河以来の旗本のくせに薩長と戦うことをせずに、負けると決めつけて和睦なんかをして、新政府から給料をもらっているなどトンデモナイ奴だと名指しで文句を言っています。そういう福沢諭吉は江戸の上野で大戦争をしている時は、それを尻目に生徒に教えていたというのですから、剛胆なものですね。
しかし、共にアメリカに行き蒸気機関車を見て、文化や政治などを知ることによって、日本はこのままではいけないと痛感したことでしょう。
勝海舟は海軍の大切さを説く
海軍の大切さを説くものの、渡米の際に船酔いで役に立たなかったというのが仇になり、勝海舟はしばらく洋学教育や砲術指南などの教育畑に行かされました。左遷されたと思ったためかサボりまくっていたという記録がありますよ。幕府は西洋の語学(英語やドイツ語)や技術を学ぶ場所を作って西洋化を図っていて、勝海舟は適任だと思ったのでしょうが、人の心というのはうまく噛み合わないものですね。
任命されたり罷免されたり振り回される勝海舟
文久2年(1862)に、一橋慶喜の一橋派が政事総裁職・将軍後見職に就任します。そのため勝海舟も軍艦操練所頭取・軍艦奉行並に就任することになり「公議政体論(諸侯に幕府と共同で政治を行う)」の支持者となったのですね。その時の勝海舟の頭には「幕府の海軍」ではなく「日本の海軍」という構想があったのでしょう。
将軍・徳川家茂が上洛する時に船で上洛することを進言しますが費用の面で却下されました。これが採用されていたら、清河八郎の「浪士組」もなく、新選組も生まれなかったかもしれませんね。この時に勝海舟を推していた「御側御用取次」の大久保一翁が左遷されて勝海舟は罷免されました。一橋慶喜に嫌われたからだといわれていますね。
かわりに幕府首脳を罷免前に上洛用にイギリスから買った順動丸で大坂へ移送することになりましたよ。そこで兵庫で「海軍操練所」建造を提案します。その頃に「坂本龍馬」の名前が日記に出てきますよ。勝海舟は開国をすすめる奸賊だと坂本龍馬が斬りに来るんですが、逆に説教されて弟子になったといわれてますね。坂本龍馬が手紙に「 今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」と書いていますよ。