日本の歴史江戸時代

200年続いた「鎖国」その真実とは?わかりやすく解説

「鎖国」とは、外国との交通や出入りや交易するのを禁止することで、江戸時代=鎖国ってイメージがありますよね。いったいなぜ「鎖国」というものをすることになったのか、誰がやり始めたのかなんのためにし始めたのか知りたいとは思いませんか?ちょっと深く調べてみました。

異国船がやってきた

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狩野内膳 – Kobe Catalogue, パブリック・ドメイン, リンクによる

ポルトガル人の「バスコ・ダ・ガマ」が南アフリカを迂回してインドに到着して以来、ポルトガルのアジアへの進出が始まりました。軍事力でインドのゴアにポルトガル領インドを設立して以後は、中国や朝鮮や琉球王国からは嫌われて密貿易を開始したのですね。

中国人のポルトガル人も乗っていた「倭寇(海賊)」の船が、天文12年(1543)に種子島に漂着しました。それが「南蛮貿易」が始まったのですよ。

織田信長の外交

「織田信長」が南蛮貿易を始めたのは「新し物好き」とよく言われますが、実はそうではなかったようですね。織田信長の目論見の代表的なものは

〇南蛮貿易によって利益を得ること。
〇鉄砲などの新しい技術や品物を手に入れること。
〇仏教の勢力に対抗するためにキリスト教の布教を認める。

利益をあげて国を豊かにすると共に堺の町をはじめ楽市楽座の自由市場は大いに盛り上がっていったのですね。そして鉄砲の導入は、それまでの戦を根底からひっくり返しました。しかし単発で終わって団体戦にそぐわないといわれた鉄砲を、陣を組んで交代しながら撃つという作戦は天下統一という夢を引き寄せたのですよ。

仏教勢力とのいさかいは、比叡山焼き討ちや高野山への進軍は有名ですが、浄土真宗との「長島の一向一揆」では弟や従兄弟や叔父たちが戦死していることもあり、どうしても対抗するものが必要だったのかもしれませんね。政治的に外交やキリスト教を自分主体で利用していたというのが、他の武将たちとは違うところですね。

鎖国への道

織田信長が政治的に利用していたキリスト教ですが、これが一般庶民だけでなく武将達も信者になってしまったのが「豊臣秀吉」の頭痛の種となり「キリスト教を禁教」とすることになってきます。それが引き続いて江戸幕府3代将軍「徳川家光」の時代には完全に鎖国へとなっていくのですよ。つまり「キリスト教禁止」からはじまったということなのですよ。これが鎖国への第一歩となります。普通は2代将軍「徳川秀忠」からはじまって徳川家光に制定されたとありますが、火種はここから始まるのですね。

秀吉大いに怒る

天文18年(1549)に「フランシスコ・ザビエル」が来日してキリスト教を布教を始めて以来、織田信長はキリスト教を利用していたのですが、その後をついだ豊臣秀吉にとっては「神の下では平等」という教えは、下克上で天下を取った者としては不穏な集団でしかないわれですよね。いつ何時キリシタン大名たちが団結して、自分だけでなく天皇まで廃そうとすることになるのではないかと思うわけですよ。

身分制度を守るため(自分の地位を守るため)にも、キリスト教を抑制しようと天正15年(1587)に「キリスト教宣教の制限」を発令します。でも宣教師達は素知らぬ顔で日本に留まっていますよ。ちょうどその頃にポルトガル人が日本人を奴隷として海外に人身売買しているということがわかります。

これに豊臣秀吉は大激怒したといいますよ。だいたい国内の戦でも、勝った国は負けた国の領民を普通に売買していのですが、外国に売り飛ばすという行為が我慢できなかったのですかね?この人身売買をとめるために同じ年に「バテレン(宣教師)追放令」を出したのですよ。とはいえ南蛮貿易は利益が出るので、出したものの積極的ではなかったのですね。

文禄5年(1595)に、土佐国にある浦戸(現・高知市)に漂着したスペイン船「サン・フェリペ号」の荷物を、豊臣秀吉は全部没収しました。怒った船の航海長は世界地図を持ち出して「日本なんかこんな小さな国のくせに!」とやらかしてしまったのですよ。豊臣秀吉は「世界は日本を狙っている!」と驚愕してキリスト教弾圧を決行。翌年には26人の処刑(殉教者)を出すということをやってしまいました。

徳川家康の外交術

豊臣秀吉から徳川家康の「江戸幕府」の時代になってもキリスト教の禁止は引き継がれていきましたが、海外貿易は盛んになっていきます。幕府は「朱印状」を発行して海外渡航の許可を出したのですよ。日本だけでなく外国人にも発行して、幕府主体の貿易をはじめたんですね。ポルトガルから遅れてスペイン人が来航します。徳川家康はスペイン人との交易に積極的になっていきますよ。「儲かればいいか」という考えだったのでしょうね。スペイン人のせいでキリスト教徒が増えていきますが、徳川家康は黙認してました。

しかし、慶長13年(1609)に「マードレ・デ・デウス号事件」が起ってしまったのですね。内容は朱印船がポルトガル領マカオでのこと、酒場でマードレ・デ・デウス号の船員たちといさかいを起こして、60人近くの日本人が殺されて積み荷を強奪されるというものです。この朱印船の船長が「有馬晴信」という人で、徳川家康は監視を置いていたのですが、有馬晴信がその人に賄賂を渡すということをしてしまったので、また大事件となってしまったのですね。

有馬晴信を中心になった事件2つに怒った徳川家康は、有馬晴信がキリシタン(表向きは元となっている)だったことから「貿易は許可するが、布教だけではなく、キリスト教を禁止」する「禁教令」を制定してしまい、幕府が管理していた教会を打ち壊して翌年には全国へ拡大。宣教師達は長崎に送られて、そこからマカオなどへ追放となってしまったのですね。

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紫蘭