幕末日本の歴史江戸時代

薩英戦争とみかんの関係って?みかんの名に残る両者の敬意を解説

戦争の始まり

1863年6月22日、ユーライアラス号を旗艦とするイギリス艦隊7隻は鹿児島湾に向けて出発。6月27日には鹿児島湾に達しました。イギリス艦隊は鹿児島湾に停泊し薩摩藩に交渉を迫ります。

鹿児島城下の間際まで迫ったイギリス艦隊は賠償金の支払いを要求しました。薩摩藩はイギリスの要求を拒否します。このとき、一部の藩士がスイカなどの果物売りに変装して乗り込もうとしますが、怪しまれて失敗。

イギリス艦隊は要求を拒否すれば武力行使を行うと通告。薩摩側も臨戦態勢に入りました。イギリス艦隊が湾内に停泊していた薩摩の汽船3隻を拿捕したことに対して薩摩藩側が砲撃を開始。薩英戦争の火ぶたが切って落とされました。

戦争の経過

薩摩側が突然砲撃してきたことにイギリス艦隊は混乱に陥ります。鹿児島湾の奥深く迄入り込んでいたこともあって、イギリス艦隊は薩摩側の砲台の格好の的となってしまいました。

しかし、さすがは世界最強のイギリス艦隊。集中砲火を浴びる場所から逃れると艦列を整えて反撃に転じます。イギリス艦隊が装備していたのは最新鋭のアームストロング砲。大きな威力と長い射程を誇ります。イギリス艦隊は薩摩側の砲台に対して反撃を開始しました。

一進一退の攻防が続く中、イギリス艦隊の旗艦ユーライアラス号に一発の砲弾が命中。指令室付近で爆発し、艦長が戦死。艦隊司令官も負傷します。体勢を立て直したイギリス艦隊は鹿児島城下に激しい砲撃を加えました。結局、イギリス艦隊の消耗は激しく艦隊を横浜に帰します。一方の薩摩藩も多くの民家や施設が破壊され、大きな被害を受けました。

薩英戦争の影響

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薩英戦争は薩摩藩・イギリスの双方が損害を負う痛み分けで終わりました。7隻中3隻の被害を受けたイギリスとしては想定外の損失だったかもしれません。戦いの後、薩摩藩とイギリスの関係は急速に改善します。そして、イギリスは薩摩藩や長州藩といった討幕派の後ろ盾となっていくのです。

イギリスと薩摩の関係改善

1863年9月、横浜で薩摩藩とイギリスの話し合いが始まりました。当初は薩摩藩もイギリスも互いの立場を主張して全く譲りません。10月に入って行われた三度目の交渉でようやく合意しました。

交渉の結果、薩摩側はイギリスに2万5000ポンドの賠償金を支払います。この戦争で双方が相手の強さを認識した薩摩藩とイギリスは、戦うよりも協力したほうが利益があると考えるました。

その後、薩摩藩はイギリスに対して留学生を派遣。この使節の中には寺島宗則・森有礼・五代友厚といった明治時代に活躍する人物も含まれていました。優秀な人材を送るこむことでイギリスが持つ力の源を探ろうとしたのです。

外国人を日本から追い出す攘夷を行うよりもイギリスの良さを学ぶ方を選んだのでしょう。また、薩摩藩はイギリスから軍艦や武器を購入し軍事力を強化しました。

一方、イギリスは貿易を独占する幕府とは別ルートとして薩摩藩との貿易の道を探ります。両国の結びつきはやがて日本全体を大きく動かす力となりました。

攘夷から討幕へ

1863年の薩英戦争や1864年の四国艦隊下関砲撃事件は日本人に欧米の持つ力をまざまざと見せつけました。生麦事件以降、最高潮に達していた攘夷運動は次第に勢いを失います。

その一方、これらの事件に対する幕府の対応は外国の要求に押されっぱなしの状態でした。公武合体の立場だった薩摩藩は幕府と距離を置き始めます。

1865年ごろから薩摩藩内では大久保利通らの討幕派が藩内での発言力を強めました。このころから、元土佐藩士の坂本龍馬が対立していた薩摩藩と長州藩の関係改善をはかります。薩長同盟は第二次長州征討で幕府から攻撃されようとしていた長州藩、幕府に見切りをつけ独自路線を歩みつつあった薩摩藩が互いに手を結ぶ軍事同盟でした。

こうして時代の流れは外国人を追い出そうとする攘夷運動から幕府を倒し新政権樹立を目指す討幕運動へと大きく傾くことになるのです。

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