日本の歴史昭和

昭和ってどんな時代?~キーワードは歌謡曲~

平成の世がいよいよ終わり、新しい元号とともに新しい時代がやってきます。そんな日本を今まで支えてきたのは昭和から平成へ至る長きにわたる年月でした。その年月の中で日本はどん底に沈んだ時期もありましたし、再び立ち上がって世界の先進国にまで成長しました。昭和を生きてきた人々にとって流行の歌謡曲は時代を映す鏡だったのです。そこで【昭和】という時代にスポットを当てて、キーワードを歌謡曲の変遷に絞って振り返ってみたいと思います。

昭和元年から昭和12年頃まで~昭和初期の流行歌~

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昭和初期の日本は、大正時代からのデモクラシーの流れを継承して自由主義的な風潮が世間に浸透していて、昭和モダンと呼ばれる洗練された和洋折衷文化が国内に根付こうとしていました。民衆はそんな近代的な生活を享受していたのです。しかし世界恐慌二・二六事件などが続き、次第に戦争の影が忍び寄ってくる時代でした。

宝塚歌劇団を代表する歌【すみれの花咲く頃】

この頃の日本の娯楽を代表するものとして宝塚歌劇団があります。現在の阪急東宝グループの創始者である小林一三が生みの親であり、この頃から関西を中心に人気を博していました。

【すみれの花咲く頃】は、元々はドイツ生まれの曲でしたが、欧米へ渡っていた演出家の白井鐵造が帰国後に日本語の歌詞をつけて歌劇「パリゼット」の劇中歌として発表しました。以来この曲は宝塚歌劇団を代表する曲となったのです。

すみれの花咲く頃(昭和5年 宝塚歌劇団)

モダンとロマンがあふれる大ヒット曲【東京ラプソディ】

昭和を代表する歌手の一人【藤山一郎】が歌った、いかにもお洒落で小粋な楽曲。歌詞の随所に「ティルーム」「ジャズ」「ダンサー」などの横文字が散りばめられ、当時の華やかな東京の様子をうかがい知ることができます。

昭和恐慌で破綻し多額の借金を背負った実家を助けるために、藤山はアルバイトでこの曲を吹き込み、当時としては異例の35万枚もの大ヒットを成し遂げました。このヒットを受けて後に本人主演で映画化もされているのです。

藤山一郎-東京ラプソディ(Rhapsody)

日中戦争勃発から終戦まで~戦火の中の流行歌~

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日中戦争が勃発し、引き続いて太平洋戦争へ突入すると、政治や社会、文化は戦時色一色となってしまいました。街からはお洒落なカフェやモダンガールが消え、歌謡曲ですら戦争を賛美し、勇ましいものへと姿を変え、国民を戦争へ駆り立てる道具となってしまったのです。

望郷の念をかき立てる哀愁のメロディ【誰か故郷を想わざる】

昭和15年に発表された曲なのですが、その頃はすでに日中戦争が泥沼と化しており、多くの兵隊が中国大陸へ渡ったまま還ってこられませんでした。この曲は慰問用のレコードとして大量に送られ、その哀愁を帯びたメロディは、故郷を遠く離れた兵隊たちの心情を揺さぶり、多くの者が涙したといいます。

外地での大ヒットを受け、内地へも逆輸入されましたが、物悲しい曲調が「国民の士気を下げる」との理由で禁止したところもあったとのことです。

誰か故郷を想わざる 霧島昇

勇ましい国民の士気高揚のための曲【若鷲の歌】

この曲が発売された1943年9月、太平洋戦争の戦局はすでに不利に傾き、日本は確実に敗戦への道を歩もうとしていました。飛行機の搭乗員も不足している中で海軍飛行予科練習生(予科練)募集のために作られた曲です。

曲の中には「敵陣になぐりこみ」「攻撃精神」「大和魂」「勝利の翼」などの勇ましい歌詞が所狭しと並び、当時の子供たちは熱狂して口ずさんでいました。太平洋戦争の末期には、子供たちの憧れだった予科練も特攻隊養成専門となり、時代に暗い影を落としていたのでした。

若鷲の歌

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