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日露戦争後のポーツマス条約はなぜ不人気だった?わかりやすく解説

ポーツマス条約の前提となった日露戦争は日本の勝利へ

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日露戦争当初は、主に中国の遼東半島における陸軍同士の戦いになりますが、旅順港の背後にある旅順要塞の攻防において苦戦します。日清戦争では2~3日で落とせたものが、2ヶ月をかけても落とせませんでした。旅順要塞攻撃の指揮官は日清戦争でも同じ旅順攻略を行った乃木希典大将が勤めていましたが、正面から兵士を突撃させる戦法に終始して犠牲者を増やしていたのです。大陸の陸軍総指令官であった大山巌元帥は、指揮官を児玉源太郎に交代させ、児玉は、旅順要塞の隣にある二百三高地に狙いを切り換え、そこから旅順要塞の攻略に成功させました。これによって、旅順港に停泊していたロシア艦隊に砲撃を行い、いよいよ海軍による海戦に両国の戦闘の中心が移っていったのです。

ロシアは、ヨーロッパにいたロシア海軍最強のバルチック艦隊を日本との海戦に向けて移動させていました。そして、そのバルチック艦隊を迎え撃ったのが、東郷平八郎元帥率いる連合艦隊だったのです。このバルチック艦隊と連合艦隊は、対馬沖の日本海海戦で戦いを繰り広げ、連合艦隊はバルチック艦隊を撃破して日本はロシア戦争において有利に立ちました。(司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」参照)

日本もロシアも財政的に追い詰められていた

当時の日本もロシアも、財政的にすでに戦争を継続できる状態にはありませんでした。両国ともほぼ自国の中では戦争をしていませんので、国民や生産設備の被害はありませんでしたが、国の予算は底をついていたのです。しかも、ロシアでは、国民の経済に対する不満が高まっており、不穏な情勢になりつつありました。そのために、両国ともに戦争継続には否定的になりつつあったのです。

アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋

そのような状況の元で、救いの手を差し伸べたのが、米国大統領のセオドア・ルーズベルトでした。日本の同盟国であるイギリスからの要請もありました。イギリスは、日本の同盟国になっていたために間にたつことができないため、アメリカに要請したのです。日本とロシアは、ルーズベルトの斡旋によってイギリスのヨークシャー州にあるポーツマスで講和会議に入りました。

ちなみにセオドア・ルーズベルトは、太平洋戦争時の米国大統領フランクリン・ルーズベルトとは従弟(いとこ)にあたります。日本とは縁のある一家と言えますね。

ポーツマスで日露講和会議の開催

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ポーツマスでの日本とロシアの講和会議は開始したものの、難航しました。ロシアも、旅順の攻防、日本海海戦では負けていたものの、ロシア領土に攻め込まれたわけでなく、敗戦とは認めず、領土問題や賠償問題は暗礁に乗り上げたのです。

譲れぬロシアに全権大使小村寿太郎も妥協

日本の全権大使は小村寿太郎でした。彼は、日本国民は勝利による賠償金に期待をしており、政治的にも財政を建て直すためには賠償金は必要なことをよく認識していたのです。しかし、ロシアもすでに財政的に疲弊しており、すでに賠償金を支払える状態にはありませんでした。しかも、政情不安があるために、戦争を指示したロシア皇帝に敗戦という責任が及ぶことは絶対避ける必要があったのです。小村寿太郎はそのことをよく理解していました。また、イギリスをはじめとしたヨーロッパ列強もロシアで革命が起こり、その影響が自分たちに及ぶことを懸念して、日本に圧力をかけたこともあったのです。

そのため、結局、小村寿太郎は、ロシアの賠償金は行わないことに妥協せざるを得ませんでした。中国の遼東半島の割譲を認め、朝鮮半島にロシアは手を出さないこと、さらにロシアで負担と批判のない領土の割譲(樺太の南半分)で交渉をまとめたのです。日本にも、すでに戦争遂行能力はなくなっており、苦渋の選択でした。

ポーツマス条約の調印へ

全権大使の小村寿太郎は、帰国すれば、批判の矢面に立たされることを覚悟の上でポーツマス条約に調印したのです。予想通り、小村寿太郎は、帰国後に国民の批判を浴びることになります。しかし、国の財政事情を知っている政治家からの批判はそれほどありませんでした。それは、彼がその後も外務大臣などを歴任していることでもわかります。

特に念願の朝鮮半島の領地(植民地化)への道筋ができたことなどにより、中国への進出を望んでいた長州閥や陸軍の評価は高いものがありました。

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