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日露戦争後のポーツマス条約はなぜ不人気だった?わかりやすく解説

ポーツマス条約で日本が得たものと国民の反発

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ポーツマス条約で日本が得たものは、次のようなものがあります。

・朝鮮半島の指導・監督権

・中国(清)の旅順・大連の租借権とハルピン(長春)以南の鉄道利権

・樺太の北緯50度以南の割譲

・沿海州とカムチャッカ半島での漁業権

実質的にはロシアにとっては大きな負担はありませんでした。

ポーツマス条約に対する国民の不満爆発_日比谷事件

ポーツマス条約で賠償金が得られなかったことに対して、国民の批判、不満は一気に高まりました。当時の日本では、財政的な疲弊で、景気対策が打てないこともあり、経済では何度も恐慌が起こっています。そのために、賠償金は、日本の景気を改善してくれる特効薬と思っており、財政上、戦争の継続ができないことを国民は知りませんでした。そのため、ロシアとの交渉で妥協した小村寿太郎に対して不満が爆発したのです。当時の日比谷公園に集まったポーツマス条約に反対する人々は、暴徒と化し、日比谷事件と言われるほどの大騒動となり、戒厳令がしかれ、軍隊まで出動しました。

中国大陸への足掛かりとなる遼東半島の租借権と朝鮮半島の支配権

一番大きかったのは、やはり遼東半島(旅順・大連)の租借権の確保と朝鮮半島の支配権でした。朝鮮半島の支配権を得た日本は、朝鮮王朝への介入を強め、3次にわたる日韓協約で政治的な支配権を確立します。1907年にはついに韓国皇帝を廃位して、内政権を手に入れ、1910年に植民地化して、朝鮮総督府を置き、軍事弾圧を行いました。その前後における日本政府並びに陸軍は、朝鮮の人々の権利や財産を取り上げ、迫害を行ったため、反日独立運動も行われています。1909年に、朝鮮の統監府の初代統監になっていた伊藤博文は、視察中にハルピンで安重根によって射殺されたのです。この当時の、日本の圧政に対する朝鮮国民の恨みは凄まじく、現在でも日韓関係がうまくいかない原因になっています。

日本陸軍にとっては絶好の機会到来

このポーツマス条約は、国民にとっては大きな不満でしたが、朝鮮半島の支配と中国への本格的進出を望んでいた日本陸軍や長州閥の政治家にとっては絶好の機会到来になりました。朝鮮半島を植民地化した日本は、遼東半島の大連から中国東北部である満州ハルピンに向けて南満州鉄道を整備敷設して、満州への進出を開始したのです。その資金的なバックボーンは朝鮮半島で搾取した利権を使っていました。日本の財政は余裕がありませんでしたが、陸軍は、朝鮮国民から搾取した財産を資金として使ったのです。

ポーツマス条約後のロシア

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ポーツマス条約を締結した後、ロシアは一服つきますが、ロシアの景気と財政は最悪の状態が続き、皇帝に対する批判は一気に高まっていきます。

ロシア革命によってロマノフ王朝の崩壊

そして、1905年にはロシア革命が起こり、ロマノフ王朝の皇帝専制政治は終わりを迎えます。続いて起こった1917年の共産革命によって、ロシアはソビエト連邦として共産国家となったのです。それは、産業革命によって資本主義社会を実現していたヨーロッパ列強諸国にとっては非常に警戒すべき出来事でした。

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