教養歴史

鳴滝塾とは?長崎に設けられた医学の私塾とシーボルトの生涯をわかりやすく解説

長崎の市街地から少し離れたところに「シーボルト記念館」という観光スポットがあることをご存じでしょうか。JR長崎駅から路面電車に揺られることおよそ20分、長崎らしい坂ある風景が続く緑豊かな斜面にある赤いレンガのモダンな建物。この敷地にはかつて「鳴滝塾(なるたきじゅく)」という名前のシーボルトの私塾がありました。まだ鎖国時代の日本で、出島の外に邸宅を持つことを許されていたというシーボルトと、西洋の医学を学びたくて彼のもとに集まった日本の若者たち。鳴滝塾とはどんな学び舎だったのでしょうか。今回はそんな鳴滝塾の詳細を、シーボルトの生涯とともに詳しく解説します。

鳴滝塾とシーボルト:日本の医学の発展に貢献した医師の生涯

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長崎県長崎市鳴滝。かつて鳴滝塾があった場所の現在の住所。鳴滝という地名は、江戸初期の頃の長崎奉行が、京都にある「鳴滝」という地名にあやかってつけたものなのだそうです。そんな場所に私塾を開くことを許されていた外国人・シーボルトとはどんな人物だったのでしょう。

生まれはドイツ(神聖ローマ帝国)の医学界の名家

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト……。シーボルトのフルネームです。

なんとなく、名前の雰囲気から察しがつきますが、この人はドイツ人。1796年、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)の司教領ヴュルツブルクというところで生まれました。

祖父も父も医者であり、貴族階級に相当する名門一族。シーボルトも医者を目指し、学問にいそしみます。

医学を学ぶ一方、シーボルトは植物学にも関心を示していました。

医学のかたわら、世界中の植物採取がしたくて日本へ

大学卒業後、植物学への興味もあって、東洋学を学びたいと思うようになります。

思うだけでなく、シーボルトは実行に移しました。東洋へ渡るには?彼はまずオランダへ行き、オランダ領東インドの陸軍病院の医師となります。

オランダを出航したシーボルトは、アフリカ南端喜望岬を経由してインドネシアのジャカルタへ。ここで軍医として働きながら自然調査にも携わります。

さらにシーボルトは、日本へ渡ることを希望。当時の日本はまだ鎖国中ですので、出島に入れるのはオランダ人と中国人だけですが、ドイツ人であるシーボルトはオランダ人のふりをして日本へ。1823年の夏のことでした。

長崎・出島での暮らしぶりと鳴滝塾の開設

シーボルトは日本で、長崎・出島のオランダ商館医となります。

当時の日本人には、オランダ人とドイツ人の区別などつきません。時期や年代はシーボルトとは異なりますが、医者や植物学者として出島に来ていた人物の中には、ドイツ人やスウェーデン人など様々な国の人が混じっていました。

とはいえ、オランダ人といえど、日本国内を自由に歩き回れるわけではありません。自由行動が許されているのは出島の中のみ。そんな中、シーボルトは唯一、長崎の町へ診察に出かけることを許されていたのです。

シーボルトは町中で診察をしながら、日本に自生する植物を採取したり育てたりしていました。

また、日本女性・滝と所帯を持つようになり、のちに娘(滝本イネ)を授かります。

さらに1824年、出島の外に医学塾を開設。これが鳴滝塾です。

シーボルトははじめのうちは、出島内のオランダ商館の中で教鞭をとっていました。しかし入塾希望者が増えたことなどから、長崎奉行が特別に許可を出し、鳴滝塾開設が実現したのだそうです。

鳴滝は出島からだいぶ離れていますし、普通のオランダ人なら考えられないこと。よほど信頼されていたのでしょう。シーボルトは鳴滝の地に開いた学び舎で、志ある日本の若者たちと交流を深めていきます。

日本地図をもらったがために……シーボルト事件

1826年、シーボルトはオランダ商館長の江戸参府に同行し、上京を果たしています。

長崎から江戸までの道中、珍しい植物を見つけては喜んでいたようです。

江戸では将軍徳川家斉への拝謁が許され、当時江戸で活躍していた学者たちとも交流を深めます。その中には、探検家の最上徳内や、天文学者の高橋景保がいました。

この時シーボルトは、彼らから日本の地図を譲り受けます。

1828年、シーボルトは帰国することになり、いったんは船に乗りますが、その船が座礁。陸に流れ着いたシーボルトの荷物の中に、高橋景保からもらった日本地図が入っていたからさあ大変。これが大問題となります。

地図の外国への持ち出しは、国防にかかわること。シーボルトはスパイ容疑をかけられ、国外追放。地図を渡した高橋景保らは厳罰処分となってしまうのです。

日本の植物のすばらしさをヨーロッパに広める

地図を渡した景保たちに非はないと進言したそうですが、残念ながら誤解を解くことはかないませんでした。妻・滝と娘を残し、失意のまま、シーボルトは日本を後にします。

1830年、オランダに到着したシーボルトは、日本で収集した植物や動物の標本をはじめとする様々なコレクションをまとめ、公開。シーボルトによって、日本の自然や風土のことが、ヨーロッパの人々に伝わることとなります。

「日本学の祖」と称されるようになったシーボルト。やがて時が経ち、1854年に日本の鎖国が解かれて間もなく、シーボルトの追放処分も白紙に戻されます。

国外追放になってから30年余り。シーボルトは1859年に再び日本を訪れます。

ヨーロッパに戻ってからも、シーボルトは日本学の研究を続けました。故郷ヴュルツブルクに「日本博物館」をオープンさせ、もう一度日本へ行くことを夢見ていましたが、1866年、体調を崩し、帰らぬ人となります。

西洋医学の学び舎・鳴滝塾の主な出身者と現在の鳴滝塾

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シーボルトが鳴滝塾にいたのは、ほんの数年ということになりますが、それでもその間、彼のもとで学んだ門下生は50人にも及びました。西洋医学の最先端技術をシーボルトから学んだ塾生たち。その中には、幕末から明治にかけ、日本の医学の進歩に大きく貢献した学者の名前もありました。

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