ヨーロッパの歴史

「大航海時代」ってどういう時代?基礎知識をわかりやすく解説

テレビの番組やゲームで取り上げられることも多い大航海時代。大きな帆船で世界の海を旅するイメージを持っている人も多いでしょう。大海原を駆け巡る男たちのロマンといった感じでしょうか。しかし、実際にどんな時代だったかは意外と知らない人も多いかもしれません。今回は、「今さら聞けない大航海時代の基礎知識」と題して、スペインやポルトガル、オランダなどが大活躍した大航海時代についてわかりやすく解説します。

大航海時代の背景

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大航海時代とは15世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ人が航海や探検によってインド洋や大西洋に進出した時代のこと。はじめにポルトガルがアフリカ航路へ、次にスペインが「新大陸」とよばれる南北アメリカなど大西洋へと乗り出していきました。

当時、海には巨大な怪物がいると言い伝えられていた時代。怪物はいなくても、未知の世界ではあった海の果てに行くのはかなりの冒険だったはず。では、なぜヨーロッパ諸国は危険でいっぱいの大海原に乗り出していったのでしょうか。

ヨーロッパの復活

ローマ帝国が崩壊してから長らく「暗黒の中世」の中にいたヨーロッパの国々は徐々に復活しつつありました。その理由は農業の進歩です。農地を三つに分けて、効率よく生産する三圃制(さんぽせい)により、生産力が高まりました。

扱う品物が増えることで商業が復活します。ハンザ同盟を中心とする北ヨーロッパでは穀物や羊毛、毛織物などが取引されました。

一方、北イタリアの諸都市はイスラームの支配下にあったエジプトやシリアと交易して香辛料や宝石、絹などを獲得。斜塔で有名なピサが発展したのもこの時期でした。

かつてのローマ帝国ほどではありませんが、人やモノ、カネがヨーロッパを動き回るようになったのです。復活したヨーロッパのキリスト教世界は徐々に外に広がろうとしました。

十字軍運動の高まり

ヨーロッパが豊かになると人口が増え始めます。そうなると、土地不足が深刻化し始めました。イスラーム勢力に押されっぱなしだったキリスト教世界は徐々にイスラーム勢力を押し返します。イベリア半島では国土回復運動(レコンキスタ)によって、イスラーム勢力を一掃。

そんな中、ギリシアに本拠地があった東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がヨーロッパに助けを求めます。東ローマ帝国は流派は違いますがキリスト教の国(正教といいます)。西ヨーロッパのキリスト教世界のトップであるローマ教皇は支援を決定。十字軍運動の始まりです。

戦いは200年の間に何度も行われましたが、結果は敗北。キリスト教徒が中東に作ったイェルサレム王国などはイスラーム勢力によって滅ぼされたのです。その後もイスラーム勢力は拡大をつづけ、1453年にイスラーム勢力のオスマン帝国は東ローマ帝国を滅ぼしました

香辛料への欲望

中学校の頃、社会の授業では「コショウ一粒は黄金一粒と同じ」と教わったかもしれません。なぜ、それほどまでにコショウなどの香辛料が高値で取引されたのでしょう。

香辛料は肉食と大きなかかわりがあります。昔のヨーロッパでは、秋から冬にかけて家畜を屠殺して肉を保存していました。冷凍庫がない時代、肉を保存するには塩漬けにするしかありません。塩漬けされただけの肉は生臭く、塩辛いものでした。においを消して美味しく食べるには、香辛料の助けが必要

香辛料は肉を食べれるほど裕福な人、つまり、貴族などのお金持ちが必要とします。そのため、高値で取引されたのです。東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は香辛料に高額な税を課しました。ヨーロッパの人々は安値で香辛料を手に入れるため、産地であるインドや東南アジアを目指したのです。

新しい航路を求めて

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古代から続く貿易路であるシルクロードは大航海時代にも機能していました。しかし、貿易の重要地点にあった東ローマ帝国が滅亡すると貿易の仕組みが変化します。

貿易の中継地を抑えたオスマン帝国がヨーロッパ向けの香辛料などに高額の税をかけました。オスマン帝国の勢力圏を避けた海上の貿易路・新航路の開拓が必要だったのです。ポルトガルやスペインがどのようにして新航路を開拓していったかを見ていきましょう。

立ちはだかるイスラーム勢力

15世紀から16世紀にかけて、イスラーム諸国は二つの巨大帝国によって統一されようとしていました。一つはイランを中心としたサファヴィー朝、もう一つは小アジアとバルカン半島を中心としたオスマン帝国です。

特にオスマン帝国は1453年に東ローマ帝国を滅ぼし、コンスタンティノープルを征服。名をイスタンブールと改めてオスマン帝国の首都としました。ヨーロッパとアジアを結ぶ重要都市を手に入れたオスマン帝国は一気に拡大。ついには、エジプトも征服してしまいます。

その結果、イスラーム世界の東半分はオスマン帝国の支配地になりました。オスマン帝国はバルカン半島を征服、オーストリア首都ウィーンへを攻撃する勢いです。オスマン帝国の目を盗んでインドと直接貿易するのは困難でした。

目指せ、喜望峰! 新航路を開拓した偉人達

地中海からインドを目指すことはできません。そこで、ヨーロッパ人たちはアフリカ大陸をぐるりと回ってインドを目指しました。

先陣を切ったのがポルトガルです。ポルトガルは国土をスペインに囲まれ、陸の領土を広げることは不可能。彼らには目の前の海に乗り出す以外の選択肢がなかったのです。

15世紀に入るとポルトガルの王子エンリケは西アフリカに積極的に進出。このことから、エンリケは航海王子とよばれます。もっとも、彼自身は船酔いするため航海に出られなかったというのは何とも皮肉な話ですね。ポルトガルの探検隊は1445年にアフリカ最西端のヴェルデ岬に到達します。

ヴェルデ岬からはひたすらアフリカ大陸を南下。1488年、ついに、バルトロメウ・ディアスの艦隊がアフリカ最南端の喜望峰に到達しました。はじめディアスは岬付近の天候の悪さから「嵐の岬」と命名。のちのポルトガル王ジョアン2世は人々が恐れることなくインド航路を開拓できるようにとの願いを込めて岬の名を「喜望峰」と改めました。

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