黒田官兵衛の支えで秀吉は信長の後継者に!
そして、姫路城に引き上げた秀吉軍に、黒田官兵衛は姫路城を差し出し、明智光秀との決戦に向けて一服ついたのです。そして、織田家の残っていた軍勢も集めて、秀吉は光秀を山崎の戦いで打ち破り、京都に入って織田信長の跡を引き継ぐのでした。
しかし、秀吉は信長の死去の知らせにも冷静にピンチをチャンスに変えてしまった黒田官兵衛に感心するとともに、警戒心も抱くようになったとも言われています。
天下人秀吉の軍師となる黒田官兵衛_家督を長政に譲り、秀吉の側に残る
羽柴秀吉は、清州会議で織田家の後見人と認められますが、織田家では柴田勝家が秀吉を受け入れませんでした。また、秀吉が望んだ信長の妹のお市の方が柴田勝家に嫁いだことから、両者は対立し、戦いは避けられません。そして、賤ヶ岳の戦いで勝家を破った秀吉は、ついに天下統一への道を歩み始めます。そして、同時に黒田官兵衛もその天下人秀吉の軍師となり、九州の豊前の国(大分県宇佐郡)の中の6郡12万石を与えられて大名になったのです。
しかし、黒田官兵衛は、九州に引きこもることはせず、1589年に家督を長男の長政に譲り、自身は引き続き秀吉の軍師として使えることにします。そして、翌1590年には、秀吉は小田原の北条氏政を攻め滅ぼし、名実ともに天下人となったのです。この小田原攻めでも黒田官兵衛は、北条氏に無血開城を説得し、功績を打ち立てています。
朝鮮征伐における黒田官兵衛
国内を平定して、天下人になった秀吉は、豊臣と性を改め、次なる目標を定めます。すなわち、大陸への進出でした。豊臣秀吉は、2度にわたって朝鮮出兵(文禄の役と慶長の役)を行っていますが、いずれにも黒田官兵衛は参加して、朝鮮半島に渡っています。
この当時の天下人になった秀吉の周りは、石田三成などの五奉行と呼ばれる事務方的な役割をこなす若い武士が占めるようになっていました。黒田官兵衛は、朝鮮出兵には反対でしたが、秀吉周辺が止めないため、仕方なく軍師として参加したのです。実際には、長男で家督を継いでいた長政が実戦部隊として活躍しています。しかし、出兵に反対していた黒田官兵衛は、2度の朝鮮出兵では、戦果を挙げていません。それどころか、出兵そのものに消極的な姿勢に2度とも秀吉から叱責を受けていたのです。
秀吉に怖れられた黒田官兵衛
朝鮮出兵に際して九州佐賀にあった名護屋城で戦況を見守っていた秀吉は、五奉行などの若い者たちを集めて、秀吉がいなければ、誰が天下を取っていたかを論じさせました。いろいろと意見は出ましたが、秀吉が語ったのは、黒田官兵衛の名前だったのです。中国大返しなどに見られるその天才的な軍師としての才覚は恐るべきものであり、官兵衛が天下を取っていただろうと言い、警戒心を見せました。
秀吉の怖れを知った黒田官兵衛の処世術
そのことを聞いた黒田官兵衛は、剃髪して「如水」と号して、朝鮮出兵を諫める遺書をしたためて秀吉に掛け合います。秀吉の取り巻きの五奉行たちは黒田官兵衛の処刑を進めますが、秀吉は許しました。警戒はしていても、自分を天下人にまで登らせてくれたのが、官兵衛であることを良く知っており、彼を守ったのです。
また、秀吉に警戒されていることを知った黒田官兵衛の処世術も見事なものでした。中国などでは、天下を取った後に、軍師たちが無実の罪で処刑される例はたくさんあります。漢王朝を打ち立てた劉邦は、参謀の蕭何や漢王朝成立の立役者であった大将軍の韓信を処刑しました。その同じ劉邦の参謀であった張良は、早くに引退して、劉邦の警戒心を解き、天寿を全うしたのです。黒田官兵衛も、この張良を意識してか、早くに家督を息子の長政に譲り、頭を丸めて命を懸けて秀吉に仕えようとしました。素晴らしい身の処し方と言えるでしょう。