日本の歴史江戸時代

5分でわかる百姓一揆の真実ー原因は?打ちこわしとの違いは?わかりやすく解説

百姓一揆(ひゃくしょういっき)といえば、どんなイメージがあるでしょうか?飢えて痩せこけた農民たちが、必死の形相で代官所に押し掛けるという場面が頭に浮かんでくるのではないでしょうか。たしかにそんな一面もあるのですが、実はそうでなかったことのほうが圧倒的に多いのです。260年に及ぶ長い江戸時代という期間の中で、百姓一揆もその性格をだんだん変えていきました。段階を追っていきながら、百姓一揆とはどんなものだったのか?解説していきたいと思います。

1.江戸時代の百姓一揆はどんなもの?

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「一揆」とは、多数の人々が行動を一つにし、共通の目的を達するという意味になりますが、江戸時代以前(中世)の一揆と、江戸時代における一揆とは、まるでその性格は違ったものでした。まずはそれらの違いから解説していきましょう。

1-1.自衛意識の強かった中世の民衆たち

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By 月岡芳年 – Turnbull, Stephen (2003). Japanese Warrior Monks AD 949-1603. Oxford: Osprey Publishing., パブリック・ドメイン, Link

日本の中世(鎌倉~室町時代~江戸時代まで)という時期は、まだ身分制がさほど確立しておらず、比較的自由な気風に満ちていた時代でした。民衆が歴史の主役だったという見方もできるのではないでしょうか。

とはいえ武家政権や寺社勢力が日本を牛耳っていた時代ですから、民衆たちは最下層に置かれて搾取される存在だったことは違いありません。

それらの権力者によって抑圧されていた民衆は、自分たちの権利を守るために「惣」や「講」といった集団組織を作り上げ、たびたび数の論理を駆使して政治要求を突きつけました。

要するに自分たちの権利を主張して、自治や借金の棒引きなどを無理やり要求したのです。蜂起した民衆たちが京都の街中に居座って、主張が認められるまで立ち退かないということがしばしばあったそうですね。

1-2.武力闘争も辞さなかった一向一揆

いっぽうで信仰心によって団結した一向一揆も理屈は同じでした。本願寺を頂点として「仏のため」というお題目はあったものの、武士や他の寺社勢力に干渉されない自治を推し進めたという意味では、「自分たちの権利を主張する」ことは至極当然のことだと受け止められました。

また信仰心を軸にした武力闘争も厭わないほど過激だったため、しばしば時の権力者に反抗していますね。織田信長に対して10年にわたって抵抗を続けた「石山戦争」などが有名です。

この中世という時代は、個々の力は弱くとも団結すれば強いという事実を広く知らしめ、主張が通らなければ武力行使も辞さないという、ある意味「社会主義」が根付いた時代でもありました。

1-3.徳川幕府の政策によって骨抜きにされた民衆

江戸時代になって平和な時がやってくると、民衆の武力闘争というものは鳴りを潜めることになりました。理由は三つあります。

まず世の中が平穏になり、殺伐とした戦国の気風が薄らぐと、人々の心の中にも余裕が生まれました。年貢や助郷(労働負担)などによる租税は取り立てられるものの、農業だけに専念していれば良く、生活は安定していたこと。

かつては水争いや山林争いなどによって、村落単位で睨み合うなど一触即発の状況になることも珍しくはありませんでしたが、仲裁機関(奉行所など)が広く認知され、交渉や裁判によって平和的に決着することが多かったこと。

幕府が広めた儒学思想によって、支配層と被支配層の関係性が明確になったこと。いわゆる「下の者は、上の者に従うべき」という美徳が広まったわけですね。だから農民たちは支配層を「お上(おかみ)」と呼び、お上に従うことが当たり前のことだと考えるようになったのです。

1-4.民衆の集団行動を恐れた幕府

幕藩体制の支配層が最も恐れたこと。それは民衆による集団行動でした。身分制度や儒教思想などによって民衆をがんじがらめにしたところで、一たび不平不満が起これば、それは燎原の火となって燃え広がることを支配層はよく知っていました。

だからこそ「五人組」という相互監視・連帯責任を負わせる制度を取り、集団による「強訴(ごうそ)」を固く禁じ、禁を破った者を厳罰に処したのです。

法律を作ることによって民衆の動きを縛り、お互いを監視させることで民衆運動の火種を起こさせないようにしたわけですね。

1-5.アメと鞭

しかし訴訟や訴えそのものを否定していたわけではありません。集団による威圧行為こそがダメなのであって、それが「不届き」だということなのですね。

「個人レベルの訴えはいいけど集団訴訟はダメだよ!」簡単に言えばこうなります。

もちろん支配層も、民衆の不平不満をそらすためのガス抜きは心掛けていました。今に残る「阿波踊り」や「郡上おどり」などは、民衆の心をつかみ、一揆を起こさせないためのイベントでしたし、鳥取県に残る「麒麟獅子舞」も、民衆を楽しませることで殿様の徳を知らしめるという目的がありました。

うまくアメと鞭を使い分けることで幕府への批判をそらし、「お上がいるから安心して暮らせる」ことをことさらにアピールしたわけです。

では、中世の一揆と、江戸時代における一揆を簡単にまとめてみましょう。

中世の一揆

「自分の権利を主張し、武力闘争に訴えてでも目的を達成すること。」

江戸時代の一揆

「年貢の減免や不正を訴え、聞き入られなければ武力は用いず、集団で強訴に及ぶ。」

※江戸時代における一揆のほうが、はるかに平和的だといえるでしょう。

2.土豪層や地侍主導の百姓一揆【江戸時代前期】

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江戸時代を通じて合計2千回以上の百姓一揆が起こったと記録されていますが、時期によって一揆の性格も全然違うものとなっていました。ではどういった変遷があったのか?江戸時代を3つの時期に分けて解説していきたいと思います。まずは江戸時代前期。この時期は戦国以来の殺伐とした気風がまだ色濃く残っており、明らかに支配層への挑戦が見て取れます。

2-1.土豪層と百姓たちの利害が一致

関ヶ原の戦いの結果、江戸幕府が開かれ、全国の大名もまるでシャッフルするかの如く領地替えされた時期にあたります。

古くからの土地に居ついていた土豪や地侍たちは、新しい領主に対して仕官する者がいるいっぽう、待遇が悪かったり、そっぽを向く者もいたりで、徐々に政治に対する不平不満が高まっていました。

かたや農民たちも、新しい領主がやって来ると高い年貢や夫役に苦しめられ、「前のご領主のほうが良かった」と不満を漏らす者も多くいたことでしょう。

同じ不満を抱く土豪地侍層と農民層の利害が一致した時、それは武力を伴ったとてつもないパワーにとなったのです。

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