近藤勇たちは江戸へ帰る
慶応4年(明治元年、1868)1月3日に起きた戊辰戦争の始まりの鳥羽伏見の戦いでは、近藤勇はケガの治療のために、結核が重くなっていた沖田総司と共に大坂城へ移動していたために参加していません。副長の土方歳三に全権をゆだねて待っているというのは辛いものがあったでしょうね。そこへ門弟の井上源三郎をはじめとした大勢の戦死者をだした隊士達がやってきました。徹底抗戦を唱えていた徳川慶喜がさっさと江戸に帰ってしまったために、新選組は幕府軍の兵士達とともに幕府軍艦(富士山丸)で江戸に戻ることになります。戦いの顛末を聞いた近藤勇は土方歳三から「もう槍や刀の時代ではない」と報告を受けてたのですよ。
甲陽鎮撫隊として甲府へ行く近藤勇
2月28日に、近藤は勝海舟から「甲府城に朝廷軍より先に入れ」と命じられ、幕府から武器弾薬、幕府や会津藩から資金を与えらます。新選組は「甲陽鎮撫隊」と名を変えて甲府に出陣しました。途中は故郷の多摩があり、佐藤彦五郎たちが隊に加わることになったのですが、1日違いで板垣退助が率いる朝廷軍が甲府城に入城していて、3月6日に甲州市勝沼町で勃発した甲州勝沼の戦いが勃発し大敗します。土方歳三が言うように武器の差が戦いの勝敗が決まるということを、近藤勇は始めて実感したことでしょう。
近藤勇の最期
甲府での戦いで隊士達の脱退が相次ぎます。江戸以来の同志だった永倉新八と原田佐之助も「家来」という扱いをされて「家来になったおぼえはない」と去って行ってしまいました。それでも近藤勇は幕府への誠を最後まで尽くそうと新たに隊士を募集して、旧幕臣などが参加して227名まで増えたのですよ。そして会津へと向かうことにしたのですね。
4月に下総国流山(現・千葉県流山市)に到着して隊士を募集するために駐屯します。同じ頃に新政府軍となった朝廷軍が、宇都宮城を目指して進軍していたのです。新選組が流山にいて背後から襲撃するのではないかという知らせは、すぐさま報告されてしました。
近藤勇は流山で投降する
4月3日、斎藤一を中心として大半の隊士達が軍事演習に出かけている時に、新政府軍がやってきたのですよ。近藤勇は「この付近に潜伏する旧幕府軍を鎮撫するために、旗本の大久保大和が来ている」と言い、いったんは引き帰しますが陣へ出頭するように言われてしまいます。色々な説がありますが近藤勇は投降することにしました。有名な説は以下のものですね。
〇自分が出頭して時間稼ぎをしている間に新選組を逃がす
〇この場で武士らしく切腹しようとしたが、土方歳三から「大久保大和と言い張っていたら釈放されるかもしれない」と止められた
近藤勇が出頭すると、土方歳三は斎藤一に隊を率いて会津へ行くように命じて、自分は数人の隊士を連れて勝海舟の元に走り助命嘆願に行きますがかないませんでした。新政府軍の陣での近藤勇は「大久保大和である」と主張していましたが、近藤勇の顔を知っている者がいて捕縛となってしまいました。
近藤勇は板橋の刑場で露と消える
近藤勇の身柄は板橋の本陣へと連行されてしまいました。そこには京都で近藤勇を銃で狙撃した御陵衛士の生き残りのひとりがいたのですよ。そこで近藤勇は覚悟を決めました。新政府軍の中では近藤勇の処遇をどうするかで意見が分かれます。坂本龍馬を暗殺したと思い込んでいる土佐藩は死罪を、殺すには惜しいと助命を唱える薩摩藩でした。最終的に土佐藩の意見が押し通って死罪と決まってしまったのですね。
4月25日、中仙道の板橋宿近くにある板橋刑場で、武士としての切腹ではなく、罪人扱いで斬首されてしまったのです。享年35歳でした。首は京都の三条河原で晒され瓦版にも載りましたが、いつの間にかなくなっていたといいます。一説では斎藤一が会津藩主の松平容保の命令で奪い返して天寧寺に墓を建てて葬ったというのがありますね。板橋の刑場後には永倉新八が近藤勇の墓を建てて、横に亡くなった新選組隊士たちの供養塔と自分の墓を建てていますよ。やはり口論して別れたとしても、近藤勇の誠の心は忘れがたいものがあったのでしょうね。
近藤勇の誠の心は、今も天然理心流に流れている
天然理心流の初代宗家の近藤内蔵助の言葉で序文にもある「天然理心流は、武術を修め、心は一誠を以って天地の公道を極める為に存す」というものがあります。これこそが近藤勇の身体の芯となっていた言葉なのでしょう。そして代々受け継がれていった「尊皇攘夷 尽忠報国」精神が、近藤勇のブレない生き様であり魅力なのですね。現在の天然理心流宗家は近藤勇の子孫である宮川清藏勇武先生です。
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