幕末日本の歴史江戸時代

新選組局長の「近藤勇」とは?一誠の武士の生涯をわかりやすく解説

池田屋事件へのカウントダウン

京都では今上天皇だった孝明天皇が開国に反対していたこともあり、長州藩は朝廷を警護していたことや関ヶ原以来の幕府への不満などがあったことから尊皇攘夷運動をしていました。それに対抗するように幕府は朝廷と幕府が仲良くして国難に向おうとすることから公武合体をとなえていました。間違えてはいけないのは、幕府側だから天皇や朝廷をないがしろに考えているように思われていますが、当時の人たちはみんな天皇を大事に思っている「勤王思想」だったのですね。長州藩を中心にした攘夷派だけの専売特許ではなかったのですよ。長州藩が八月十八日の政変で追い出されたのは、結局のところは京都での政権争いに負けたということですね。

そして京都の政権は、会津藩・薩摩藩などが力をもっていき、一橋慶喜・松平容保(会津藩主・京都守護職)・松平定敬(桑名藩主・京都所司代・松平容保の実弟)の三者による「一会桑政権」となりました。これを不満とした尊皇攘夷運動をしている人たちは、どこの藩政府も実際のところは(長州藩ですら)幕府に逆らう気などなかったので、脱藩して隠密に活動を続けます。それを取り締まっていたのが新選組だったのです。

池田屋事件の発端

6月1日、脱藩せずに運動をしていた指名手配されていた熊本藩士の宮部鼎蔵という人がいました。その下僕・忠蔵ほか2名を捕縛し謀反の計画を知ります。5日、監察方の山崎丞と島田魁の働きで、薪炭商を営んでいる枡屋喜右衛門が、実は攘夷運動をしている古高俊太郎だということが判明して捕縛しました。そこで拷問が行われて白状した内容というのは「京都を追い出された長州人達が祇園祭前の強風の日を選んで御所を放火して、混乱に乗じて佐幕派公卿の中川宮を幽閉し、京都守護職の松平容保などの佐幕派大名たちを殺害し、天皇を長州へ連れ去る」というとんでもない計画でした。ただちに新選組は捜査を開始します。そこで池田屋か四国屋で会合が開かれるという情報を得たのでした。

池田屋事件!

実際のところは場所は特定できていなかったようですね。近藤勇の組と土方歳三の組と二手に分かれて、鴨川の両岸の旅館をしらみつぶしに捜索したといわれています。出動したのも会津藩が来るのが遅くて逃げられたら困るから出動したというのが定説のようになっていますが、実は手柄を焦ってフライング出動したというのを、新選組研究者の伊東成郎氏の講演で教えてもらいました。

22時頃に近藤勇の組が池田屋に突入します!店の中には近藤勇は信頼の置ける沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で踏み込んで、残りは店の外に配備しました。中には20人以上の浪士たちがいたといいますので、知っていたらもっと大勢で行ったのではないかと思いますね。今と違って蝋燭などの光がないと真っ暗な店内なことから、大勢で踏み込まれたと思った浪士達は死にものぐるいで抵抗してきますよね。ところが途中で沖田総司は持病の結核で血を吐いて戦線離脱、藤堂平助もあまりの暑さに頭を防御する鉢金を取ったところを斬りつけられて負傷。なんと永倉新八と2人で戦うことになったのでした。

窓から逃げた浪士に斬りかかられて裏口を警護していた隊士の奥沢栄助即死、新田革左衛門・安藤早太郎はケガが元で1ヶ月後に亡くなりました。その頃に知らせを受けた土方歳三の組が駆けつけてきて斬ることから捕縛へと変わります。同じく会津藩も駆けつけたのですが、土方歳三が手柄を横取りしないように制したといいますね。近藤勇は決して死なないという確信があったのでしょう。すごい信頼ですよね。その功績によって朝廷と幕府から報奨金をもらい、新選組の名は一躍有名になったのでした。それにつれて隊士が増えていき200人を超える勢いになったために、屯所を壬生の八木邸ほかから西本願寺に移転します。

幕府に認められていく近藤勇

元治元年(1864)5月、近藤勇は大阪で槍の道場をしていた七番組隊長で槍術師範の谷三十郎の弟である周平を養子に迎えます。しかし試衛館の次の宗家は沖田総司に継がせるという手紙を残しているのですよ。それはそれ!これはこれ!という事でしょうか?その年の禁門の変で出動した後、近藤勇は隊士募集に江戸に帰り、伊東甲子太郎とその一門を隊士として迎えることになったのですね。

慶応元年(1865)9月21日、将軍・徳川家茂は京都御所へ参内して長州再征の勅許を得ます。その長州訊問使に近藤勇は広島へ同行することになりました。次の年も含めて幾度かの長州入りを画策したものの許可が出ず、徳川家茂の死去とともに長州征伐は停止されました。

近藤勇は幕臣になる

慶応3年(1867)に、幕府に重用されていくとともに、思想があわなくなった伊東甲子太郎一門と意見を同じくする隊士たちが分離して「御陵衛士」という隊を作りました。江戸以来の同志である藤堂平助は元々伊東甲子太郎の弟子でしたので別れることになります。その中にはスパイとして三番隊隊長の斎藤一が同行しますが、後に伊東甲子太郎暗殺し御陵衛士の壊滅させる前に戻ってきました。

6月10日、近藤勇をはじめとした新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となりました。近藤は御目見得以上の格(三百俵旗本)。これにより近藤は幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うことが増えて、新選組の仕事に要人警護が加わったのですよ。それと同じくして6月15日に屯所を西本願寺から不動堂村に移転。その頃に江戸以来の同志だった山南敬助が脱走して切腹します。

戊辰戦争が始まる

同じ慶応3年の12月9日に将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上したために王政復古の号令が発せされて、京都の旧幕府勢は撤退を命じられることになりました。将軍が京都に不在の時には新選組は二条城警護をしていたのですが、それによって伏見の陣へと移動します。12月18日、近藤は伏見の陣から二条城へ出向き、その帰りに御陵衛士の生き残りの8名に竹田街道・墨染(京都市伏見区)で待ちぶせさせられて銃撃されてしまい肩に重傷を受けてしまったのですよ。

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紫蘭