幕末日本の歴史江戸時代

新選組局長の「近藤勇」とは?一誠の武士の生涯をわかりやすく解説

本庄宿で近藤勇は大失敗をする

文久3年(1863)2月8日、小石川の伝通院を出発した浪士隊ですが、なぜか東海道をゆく将軍とは別の道の中山道を通って京都にいくことになりました。取締付・池田徳太郎の手伝役として道中の宿割りを命じられ本隊より先行して出立したと子母沢寛の『新選組始末記』には書かれています。

ところが次の日の2月9日の本庄宿で、近藤勇は大失敗をしてしまったのでした。豪傑で水戸天狗党の生き残りという芹沢鴨も宿屋をとるのを忘れてしまったのですよ。芹沢鴨は新しく用意された宿舎にも行かず町の真ん中で大焚火をやりはじめたのですね。近藤勇は取締役の池田と共に土下座して謝ったという話を『新撰組顛末記』に書かれています。この芹沢鴨と京都で行動を共にすることになるなど、その時の近藤勇は思いも寄らなかったでしょうね。失敗はそれだけで、浪士隊は無事に京都に着き、近藤勇たちは壬生村(京都府中京区)の寺社や民家に分宿することになったのですよ。

大詐欺の浪士隊に近藤勇は憤慨する

京都に着いた2月23日夜に、清河は新徳寺で「浪士組が上京した真の目的は朝廷に尊皇攘夷の志を建白すること」「これから江戸へ帰る」と言い出しました。そして学習院国事参政掛に建白書を提出してしまったのですよ。近藤勇は「自分たちは将軍を警護するために来たのだから帰らない」と宣言します。幕府を利用しようとした清河に憤慨したことと幕府より朝廷を重きをもっていることが許されなかったのでしょう。そこで驚いたことに芹沢鴨が同調してくれて、24人が残留することになったのですね。

 

壬生浪士組が結成!

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その頃の京都は開国以来、ほとんど形だけで政治的にはないがしろにされていた天皇・朝廷が、幕府から開国するのはどうしたらいいのかと、ちょうど蒙古襲来の時に鎌倉幕府が朝廷にぶん投げた前例にそったかのように意見を聞きましたために、幕府に対して不満を持つ藩が朝廷について暗躍し、それをいいことに「おれたちは勤王の志士である」と自称勤王の無頼狼藉を行う不逞浪士たちが暴れていました。それを取り締まるために「京都守護職」という役所ができて、会津藩が任命されていたのです。その手足となる今でいう警察組織が必要となっていたこともあり「京都守護職お預かり」ということになったのですね。

壬生浪士組はカオスだった

会津藩藩主の松平容保より、正式に3月12日に将軍在京中の市中警護を命じられた壬生浪士組が結成されました屯所は最初に分宿されていた八木家と前川家にそのままお世話になります。腕自慢の間違えると不逞浪士と変わらないような隊士達をまとめるために「局中法度」というものを作りました。これによって武士よりも武士らしく生き、武士の最上級の死である切腹という処罰が課せられるのですね。ドラマなどでは不逞浪士や勤王の志士たちを斬りまくっているイメージがありますが、壬生浪士組から新選組になっても仕事は「捕縛すること」が第1です。こちらの人数が少なく相手が大勢の場合は斬るというのが2番目ですよ。なので実際に組によって斬ったのは待機違反した隊士達が一番多かったといいますね。

芹沢鴨暗殺!

文久3年(1863)8月18日に、公武合体に反対して朝廷を操ろうとしている長州藩を追い出すために中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩が主だって「八月十八日の政変」というものが起きました。壬生浪士組も要請されて出動しましたが肝腎の戦には手柄はありませんでしたが戦後処理の働きで「新選組」という名前を賜ることが決まります。その時に会津藩から「芹沢鴨たちの狼藉が目に余るからどうにかするように」という内密の命令がくだされました。それは大阪で関取達ともめて斬り合いになったり、金銭的に苦しかった壬生浪士組のためもあったのか大店への強引な金銭の押し借り踏み倒しなどですね。

近藤勇たちは島原で大宴会をして、泥酔させた芹沢鴨たちを八木家に送り、土方歳三・山南敬助・沖田総司らが夜中に襲撃しました。暗殺者たちは庭から入り、玄関横の部屋にいた平山五郎、平間重助を斬り(平間重助は逃げます)、芹沢鴨が寝ていた部屋を襲撃します。目が覚めて隣の部屋に逃げ込んだ芹沢鴨は、八木家の人たちが寝るために障子のところに置いてあった机につまずいて倒れたところを刺されて絶命しました。その時にたぶん沖田総司がつけただろうといわれている鴨井に今も刀傷が残っています。芹沢鴨が寝ていた部屋には近藤勇の木彫りの像が飾られていて、その部屋にある仏壇には芹沢鴨らの位牌がありました。明治になっても血痕が部屋のあちこちに残っていた部屋に近藤勇が寝ていたと八木邸ガイドのおじさんは言ってましたが、それはどうかな?と思いましたね。

新選組誕生!

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筆頭局長だった芹沢鴨たちを粛清して、近藤勇が唯一の局長となりました。副長は土方歳三、総長に山南敬助、試衛館以来の仲間達は各組の隊長に就任して、結成以来入隊した腕利きの剣士達も隊長になり組織として盤石な体制になったのですね。しかし名前は一部の人たちにしか覚えてもらえず、知っていても壬生に住んでいる怖い人たちという認識で「壬生狼」とか、経済的にも裕福でなかったために「壬生ボロ」などと呼ばれていたのですよ。その新選組が一躍全国に知れ渡っていく事件が起きました

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紫蘭