イタリアヨーロッパの歴史

【5分で解説】ガリレオ・ガリレイの生涯や功績まとめ!結局何をした人なの?わかりやすく解説

【3】金星の満ち欠けと木星の衛星と太陽の黒点の発見

月の表面の凸凹を観察し続けたことで、月が丸い天体であることを発見したガリレオは、その後も宇宙に目を向け続けました。

1610年、ガリレオは木星のまわりをまわる衛星を発見します。

この頃は、すべての天体が地球のまわりを回っているというキリスト教の考え方(天動説・地球中心説)がすべてでしたので、ガリレオのこの発見は当時の世界観を根底から覆すものとなりました。

さらにガリレオは、金星も観察。金星にも月の満ち欠けのような現象が確認でき、大きさも微妙に変化することを突き止めます。金星が太陽の周りをまわっていることを証明したのです。

そして太陽の観察にも着手し、ついに表面に黒い点を発見。地動説をゆるぎなきものにします。

天の川が無数の星の集合体であることを発見したのもガリレオなのだそうです。

【4】天動説を否定して教会から目をつけられた?宗教裁判のゆくえ

実際に目で見て事実を突き止めたガリレオでしたが、これによってカトリック教会から目をつけられ、異端として訴えられてしまいます。世にいう「ガリレオ裁判」です。

実は「地球は太陽のまわりをまわっている」と最初に言い出したのはガリレオではありません。ガリレオより前に、コペルニクスという天文学者が地動説を唱えています。さらに遡ること1800年ほど前の古代ギリシャのアリスタルコスという天文学者も、宇宙の中心は太陽であると発言。ガリレオも決して教会に歯向かう意図はなく、丁寧な実験と観察にもとづき、発見した事実を公表したに過ぎないのです。

しかし教会はガリレオの言動を良しとしませんでした。

1616年、ガリレオはローマ教皇庁から「今後、地動説を唱えないように」と注意を受け、これを受け入れます。

時が経って1630年、ガリレオは地動説と天動説、そしてそのいずれでもない中立説の3説の対話という形式をとった解説書『天文対話』を執筆。再び教会から訴えられ、1633年、有罪判決(終身刑)に。のちに減刑されましたが、常に監視がつき、ほぼ軟禁状態で生涯を終えることになるのです。

【5】真の功績はこれだ!現代科学の礎を築いたガリレオ・ガリレイ

落下の法則や木星の衛星の発見など、物理学・天文学の分野で大きな発見を重ねてきたガリレオ・ガリレイですが、真の功績は「科学への姿勢」だと考える人も多いようです。

ガリレオは膨大な量の文書・書物を残した学者としても知られています。ひとつのことを言及するために、自分の考えに耳を傾けてくれる人たちに対して、それが例えまったく畑違いの人々であったとしても、丁寧に文章を書き綴っていったのだそうです。

そして最期の時まで罪状が解かれることはなく、1642年1月、イタリア・フィレンツェ郊外のアルチェトリにあった自宅で亡くなります。

ガリレオは、教会と好んで過剰な争いをしたわけではありません。固定概念にとらわれず、派手さを求めず、ひたすらまっすぐに表しただけなのです。その研究への姿勢は後の科学者たちにも受け継がれ、現代科学の基礎となっています。

ひとつの結論に偏りすぎず、「はい」「いいえ」「どちらでもない」の3説を立てて冷静に物事を判断するその姿勢こそ、ガリレオが残した最大の功績なのかもしれません。

「それでも地球は動く」と呟いたのはガリレオではない?

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ガリレオ裁判の後にガリレオが呟いたとされる「それでも地球は動く」というこの言葉、実はガリレオ本人ではなく、後の世にガリレオの弟子らが付け加えたという説があるそうです。この裁判には多くの謎があり、その後も様々な検証が続けられてきました。没後350年の1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はガリレオ裁判に誤りがあったとガリレオに謝罪しますが、ガリレオが求めていたものは派手なエピソードではなかったはず。ガリレオは死後もなお、科学の在り方とともに歩み続けていたと言えそうです。

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