教養歴史

戦国武将驚きの戦術!~戦いは力ばかりではない?~

陶軍の全滅

1555年、2万余の陶軍はついに厳島に上陸。宮尾城攻めに取り掛かりました。陶全軍が渡り終わった頃合いを見計らって、毛利軍は夜陰と暴風雨に紛れて厳島へ逆上陸。元就の息子小早川隆景などは陶軍の味方のフリをして堂々と上陸しています。

安芸の宮島として有名な厳島ですが、行ったことがある方ならわかるはず。非常に狭く大軍の行動には全く適していません。午前6時頃、4千の毛利軍は一斉に奇襲攻撃に出ました。陶は大軍であるがゆえに動きもままならず、逃げようにも船は焼かれて逃げ場はありません。そうして丸二日にわたって完膚なきまでに叩かれた陶軍は、ほぼ全滅します。

総大将の陶晴賢はどうしたのか?やはり逃げ場を失って船すらなく、浜辺で自刃していたのです。こうして最大の敵である晴賢を滅ぼした毛利氏は、飛躍的に勢力を伸張させていくことに。まさに元就の謀略術が存分に発揮された戦いだったと言えるでしょう。

島津家四男坊の大金星~沖田畷の戦い~

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戦国時代の九州では、「大友、龍造寺、島津」といった戦国大名が三つ巴の戦いを繰り広げていました。その中でも龍造寺氏は、ライバルの大友氏が没落していく傍ら勢力を伸張し続け、4か国を支配するほどの大大名に成り上りました。南九州の精強を誇る島津氏ですら軍事力では完全に圧倒されていたのです。

有馬晴信の離反と家久出陣

当時、龍造寺隆信に属していた肥前(現在の佐賀県)の有馬晴信は、隆信に対して不満を募らせることがあり、突如離反します。隆信は「肥前の熊」と異名を取る大将でしたが、素行が荒っぽく人心掌握にあまり長けていなかったともいわれていますね。有馬討伐のために軍勢を派遣するのですが、なかなか埒が明かない。

そこで今度は隆信自身がが5万ともいわれる大軍勢を引き連れて出陣したのでした。慌てたのは有馬晴信のほう。このピンチに、急ぎ肥後にいた島津軍に援軍を求めます。しかし当時の島津は大友という大敵と相対しており、早急に大軍を派遣するわけにもいきませんでした。

そこに白羽の矢が立ったのが島津家の四男坊だった家久だったのです。武勇の誉れは高かったものの、四男だっただけに自らの領地もなく部屋住みの身だった彼には大軍を率いた実績すらありません。わずか5千で救援に向かったのでした。

大軍を泥地に誘い込み殲滅

援軍を受けた側の有馬晴信にとっては、島津の援軍がたった5千では大いに落胆したことでしょう。このままでは戦えないと居城に引きこもっての持久戦を主張しました。しかし、家久は頑として跳ねつけます。龍造寺の大軍を相手に息の根を止めるのはこの時しかないと感じたからでしょうか。

家久の強い意志に引きずられるように、島津有馬連合軍は沖田畷という泥田や湿地帯に囲まれた一本道の端に陣取りました。道の出口に木戸をこしらえて、背後の山陰には兵を潜ませたのです。これを見た龍造寺隆信、敵は少数だと侮り、一気に大軍を進ませました。

大軍の来襲に連合軍はたちまち敗北、敗走。したはずでした。しかしこれこそが家久が狙っていた作戦「釣り野伏せ」だったのです。追い打ちを掛けるように追撃してきた龍造寺軍に対して、伏兵が弓矢や火縄銃の連射を浴びせかけ、大混乱に陥れたのでした。一本道を進む大軍ゆえに動きもままならず、両側は深い湿地。後続の部隊が次々にやってくるので前進も後退もままならない状況の中、被害が続出していきました。

そして今度は島津の逆襲が始まります。混乱する主戦場を迂回した島津の別動隊は直接、龍造寺の本陣へと殺到。不意を突かれた本陣はこれまた大混乱に。大将の龍造寺隆信もあえなく首を取られてしまいました。この戦いで龍造寺の名だたる有力武将が戦死し、この戦い以降の龍造寺氏は衰亡の一途をたどることになったわけですね。

手紙で勝利した徳川家康~関ヶ原の戦い~

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天下分け目の関ヶ原の戦い。勝敗を決したのは何も武力だけではありません。多くの味方を引き入れることができた徳川家康の、几帳面で律儀な性格が勝利を呼び込んだともいえるでしょう。

とにかく恩を売る家康

徳川家康は、目先の利害や損得など関係なしに、とにかく他人に恩を売ることがうまかった人物だと言えるでしょう。今すぐに良いことがなくても、将来いずれ自分にとって得になる相手かもしれない。そういう思いで人付き合いをしていたのではないでしょうか。

例えば、豊臣秀吉の親族で小早川秀秋という人物がいますね。秀吉の勘気を蒙り、大きく減封されていたところを五大老だった家康が取りなして大大名に復帰していますし、後に敵となるはずだった石田三成も、武断派の武将から襲撃されていたところを助けたこともありました。

だからこそ人々は、「家康の言う事なら信用できる」という思いを持っていたのではないでしょうか。あの信長にも律儀に臣従し、豊臣政権では五大老筆頭の重鎮となり、人間的に重みがあったということが言えるかも知れませんね。

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明石則実