室町時代戦国時代日本の歴史

5分でわかる戦国時代の戦術!陣形は?どんな戦いがあった?わかりやすく解説

2-5.敵の油断を誘う必殺の戦法【釣り野伏】

薩摩の島津軍が頻繁に用いた陣形です。陣形というよりも作戦と表現した方が妥当かも知れません。敵が大軍であるほど有効に効果を発揮したといいます。

まず戦場の側面にあたる林や丘など身を隠せる場所に兵を伏せておき、正面の部隊が敵とぶつかるとしましょう。そこでわざと負けたふりをして逃げ出し、勢いに乗って追撃に出てきた敵を誘い込むのです。

するといきなり側面から伏兵が飛び出し、敵の横腹めがけて攻撃を繰り返します。逃げたと見せかけた正面の部隊もクルリと向きを変えてきますから、敵は大混乱に陥って収拾がつかなくなるというわけですね。

「耳川の戦い」、「沖田畷の戦い」、「戸次川の戦い」などに用いられ、敵に大打撃を与えたそうです。

3.小よく大を制した氏康の策謀~河越夜戦~

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ここからは戦国時代に起こった有名な戦いを個々にご紹介していきましょう。戦国時代の幕開けと共に、表舞台に駆け上がってきた小田原北条氏。元は足利幕府の奉公衆だった伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国で身を起こし、相模国(今の神奈川県)を奪って戦国大名として名を挙げますが、関東を実質支配していた関東管領上杉家(山内、扇谷)が黙って見過ごすはずもなく、抗争に突入していました。

3-1.大軍に囲まれる河越城

北条氏と敵対していた上杉氏とは、関東公方(関東の武士を束ねる将軍のような存在。足利一門が担っていた)を補佐する執政職でしたが、いつしか関東公方よりも力を持ち、当時は山内上杉家と扇谷上杉家が併立しながら反目し合う間柄でした。ほぼこの二家で関東支配を牛耳っていたのです。

しかし北条氏が力をつけ、相模国どころか武蔵国(現在の東京都、埼玉県)まで手を伸ばすと、いよいよ両者はぶつかり合うことになりました。共通の敵であり危険な存在として北条氏を認識した両上杉氏は連合し、その大軍をもって反撃に出ました。その鉾先となったのが河越城(現在の埼玉県川越市)だったのです。

当時の北条氏は二代目の氏綱が亡くなったばかりで、跡を継いだのが30歳そこそこの北条氏康。1546年、この機を逃さじと両上杉連合軍はなんと8万もの大軍で河越城を囲んだのでした。城に籠城するのは北条綱成ら3千ばかり。肝心の当主氏康は西の今川と戦っている真っ最中で、簡単には援軍に駆けつけられません。

3-2.氏康が仕掛けた謀略戦術

ところが幸いなことに、河越城の食糧の備蓄は十分で、兵士たちの戦意も高く、容易に城は落ちません。なんとか半年ほど時を稼ぐことができたのです。その間に氏康は今川氏と和睦交渉を結び、関東へ取って返すことに成功。さっそく両上杉と対陣することとなったのでした。

とはいえ氏康の手元にはわずか8千程度の軍勢しかなく、まともに戦っても勝ち目はありません。そこで氏康は大軍を切り崩すための謀略を仕掛けました。それは「偽りの降伏」を申し出ること。もちろん、今まで北条にさんざん煮え湯を飲まされ続けてきた両上杉が簡単に降伏を許すはずもありません。

しかし、それは氏康にとってすべて計算ずくのことでした。こちらが弱みを見せれば必ず侮ってかかるはずだと。上杉という名門の家にありがちな心の隙を狙った策略だったのです。また、念には念を入れて扇谷上杉氏の重臣太田資時をも調略によって寝返らせることに成功したのでした。

3-3.士気が下がる上杉連合軍

両上杉方は頻繁に攻撃を仕掛けてきますが、小競り合いに終始するのみで氏康はのらりくらりと鉾先をかわして戦おうとはしません。

いっぽう「北条の者共のやる気のなさよ。これで上杉の勝利は確実なもの」と高をくくった上杉連合軍の陣営には楽勝ムードが漂います。

時間の経過とともに気の抜けた厭戦ムードが漂う上杉連合軍。特に夜間には警戒も手薄になり、長い帯陣で疲れた兵士たちが「早く故郷へ帰りたがっている」という情報も、氏康の元にもたらされました。

3-4.電光石火の奇襲作戦

この状況をみた氏康はチャンスを逃しませんでした。自軍の兵士に鎧兜をすべて脱がせて身軽にさせ、音が鳴らないよう接近させたのです。完全に油断して警戒すら怠っていた上杉軍に対して、夜陰に紛れて一斉に襲い掛からせたのでした。これが世にいう三大奇襲戦のひとつ、河越夜戦ですね。

子の刻といいますから深夜の0時~2時の間。襲われたほうはたまったものではありません。縦横無尽に斬り崩してくる北条軍に対し、有効な反撃すらできず上杉陣内は大混乱!有力な武将が次々と討ち死にしていきます。

ついに蜘蛛の子を散らすように退却していきますが、なんと扇谷上杉家の当主(上杉朝定)までが討ち死に。この時の上杉軍の死者は1万5千とも言われていますね。

この戦いを契機に、関東でのパワーバランスは一気に北条氏へと傾きました。このわずか6年後、関東を牛耳っていた関東管領上杉氏はついに関東を追い出され、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びる羽目になるのです。

4.鮮やかすぎる毛利元就の謀略術~厳島の合戦~

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安芸国(現在の広島県)の国人領主から出発した毛利元就。彼はまさに大器晩成型の人物で、老齢になってから中国地方を治める大大名となりますが、そこに至るまでの道筋は平坦なものではありませんでした。その最も強大なライバルというのが主家の大内氏を下克上で倒し、その実権を握る陶晴賢でした。彼を倒さねば毛利家の道は開けない。しかし圧倒的な軍事力の差がありすぎます。さて元就に打開策はあるのでしょうか。

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明石則実