4-1.まずは敵の力を削ぐこと
陶晴賢が動員できる兵力は約2万5千。かたや毛利氏の動員力はどんなに多くても約4千。普通に戦ってはまず勝ち目がありません。そこで元就はまず陶方の力を削ぐことを考えることにしました。
陶軍に江良房栄(えらふさひで)という武将がおり、勇将として近隣に名を轟かせていました。敵なら厄介だが味方となれば、これほど心強いことはありません。元就はダメ元で房栄を調略しようとしますが、なんと房栄はあっさりと内応。しかし元来強欲な人物だったのか、更なる加増を求めてきたのです。
そこで元就は一計を案じ、内応の交渉すべてを陶方にばらします。疑心暗鬼にかられた陶晴賢は結局、房栄を暗殺してしまい、元就は手を汚すことなく敵の力を削ぐことに成功したのでした。
4-2.謀略で敵を厳島に誘い込む
次に、大軍を相手にした決戦場をどこにするか?広い平野で戦っても勝ち目はありません。そこで元就は噂を流します。「厳島(宮島)に城を築いたのはいいが、狭いし城も小さい。だけどここを取られると毛利は喉元に刃を突き付けられたのも同じことだ」と。
当時の安芸国には陶方のスパイがたくさんいたたため、すぐに晴賢の耳に入ることになりました。そしてチャンスと確信した晴賢は、厳島の宮尾城攻めの準備に取り掛かったのでした。
また毛利家臣に桂元澄という者がおり、父親がかつて元就に討たれた経緯から「陶方に内通したい」という偽文書を何度も晴賢に送りつけました。当初は信用していなかった晴賢も、次第にその気になったのでしょう。「桂も味方に加われば、これは勝ったも同然」と大軍を率いて厳島へ向かうことになったのでした。
元就は最後の謀略の仕上げも忘れません。厳島から陶軍が逃げ出さないよう海上封鎖のために村上水軍を味方につけていたのです。戦いが始まる前から完全なる布石を打っておく。これが元就流の知謀だったのですね。
4-3.陶軍の全滅
1555年、2万余の陶軍はついに厳島に上陸。宮尾城攻めに取り掛かりました。陶全軍が渡り終えた頃合いを見計らって、毛利軍は夜陰と暴風雨に紛れて厳島へ逆上陸。元就の三男小早川隆景などは陶軍の味方のフリをして堂々と上陸しています。
「安芸の宮島」として有名な厳島ですが、行ったことがある方ならわかるはず。非常に狭く大軍の行動には全く適していません。
午前6時頃、4千の毛利軍は一斉に奇襲攻撃に出ました。陶は大軍であるがゆえに動きもままならず、逃げようにも船は焼かれて逃げ場はありません。そうして丸二日にわたって完膚なきまでに叩かれた陶軍は、ほぼ全滅したのです。
総大将の陶晴賢は逃げ場を失ってあげく乗る船すらなく、浜辺で自刃しました。こうして最大の敵である晴賢を滅ぼした毛利氏は、飛躍的に勢力を伸張させていくことになりました。まさに元就の謀略術が存分に発揮された戦いだったと言えるでしょう。
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5-1.有馬晴信の離反と家久出陣
当時、龍造寺隆信に属していた肥前(現在の佐賀県)の有馬晴信は、隆信に対して不満を募らせることがあり、突如離反します。隆信は「肥前の熊」と異名を取る大将でしたが、素行が荒っぽく人心掌握にあまり長けていなかったともいわれていますね。有馬討伐のために軍勢を派遣するのですが、なかなか埒が明きません。
そこで今度は隆信自身がが5万ともいわれる大軍勢を引き連れて出陣したのでした。慌てたのは有馬晴信のほう。このピンチに肥後にいた島津軍に援軍を求めます。しかし当時の島津は大友氏とと相対しており、早急に大軍を派遣するわけにもいきませんでした。
そこに白羽の矢が立ったのが島津家の四男坊だった家久だったのです。武勇の誉れは高かったものの、四男だっただけに自らの領地もなく部屋住みの身だった彼には大軍を率いた実績すらありません。たった5千で救援に向かったのでした。
5-2.有利な地形に陣を張る島津・有馬連合軍
援軍を受けた側の有馬晴信にとって、島津の援軍がたった5千では大いに落胆したことでしょう。このままでは戦えないと居城に引きこもっての持久戦を主張しました。
しかし、家久は頑として跳ねつけます。龍造寺の大軍を相手に息の根を止めるのはこの時しかないと感じたからでしょうか。
家久の強い意志に引きずられるように、島津・有馬連合軍は沖田畷という泥田や湿地帯に囲まれた一本道の向こう側に陣取りました。道の出口に木戸をこしらえて、背後の山陰には兵を潜ませたのです。
5-3.大軍を泥地に誘い込み殲滅
龍造寺隆信は状況を見るなり敵は少数だと侮り、一気に大軍を進ませました。大軍の来襲に島津・有馬勢はたちまち敗北。そして敗走したはずでした。しかしこれこそが家久が狙っていた作戦「釣り野伏せ」だったのです。
追い打ちを掛けるように追撃してきた龍造寺軍に対して、伏兵が弓矢や火縄銃の連射を浴びせかけ、大混乱に陥れたのでした。一本道を進む大軍ゆえに動きもままならず深い湿地に足を取られる有様。後続の部隊が次々にやってくるので前進も後退もままならない状況の中、被害が続出していきました。
今度は島津の逆襲が始まります。混乱する主戦場を迂回した島津の別動隊は直接、龍造寺の本陣へと殺到。不意を突かれた本陣は大混乱に陥りました。そして大将の龍造寺隆信もあえなく首を取られてしまったのです。この戦いで龍造寺の名だたる有力武将が戦死し、龍造寺氏は衰亡の一途をたどることになったわけですね。