6.手紙で勝利した徳川家康~関ヶ原の戦い~
天下分け目の関ヶ原の戦い。勝敗を決したのは何も武力だけではありません。多くの味方を引き入れることができた徳川家康の、几帳面で律儀な性格が勝利を呼び込んだともいえるでしょう。
6-1.とにかく恩を売る家康
徳川家康は目先の利害や損得など関係なしに、とにかく他人に恩を売ることがうまかった人物だといえるでしょう。今すぐ良いことがなくても、将来いずれ自分にとって得になる相手かもしれない。そういう思いで人付き合いをしていたのではないでしょうか。
例えば、豊臣秀吉の親族で小早川秀秋という人物がいますね。秀吉の勘気を被って大きく減封されるところを、家康が取りなして復帰していますし、のちに敵となる石田三成にしても、武断派の武将から襲撃されていたところを助けたこともありました。
だからこそ人々は、「家康の言う事なら信用できる」という思いを持っていたのではないでしょうか。あの信長に対して律儀に付き合い、豊臣政権では五大老筆頭の重鎮となり、人間的に重みがあったということがいえるかも知れませんね。
6-2.家康の手紙攻撃はじまる
1600年、関ヶ原の戦いが起こる直前に、家康は多くの大名を率いて会津征伐に出陣しました。これら大名たちの軍勢がそのまま東軍という形になるのですが、それでもまだまだ石田三成が興した西軍に比べれば数が足りない。
そこで家康は自らが書いた手紙によって西軍に付いた大名や中立の大名たちに味方になるよう求めます。スマホも電話もない時代ですから、通信手段としては手紙しかありません。
実力者の家康の言葉ですし、そこには重みもありました。諸大名たちの心が動かないわけがありません。
6-3.家康が書いた実際の手紙の内容とは?
「急度申し入れ候、治部少輔・刑部少輔才覚を以って、方々に触状を廻らすに付て、雑説申し候条、御働の儀、先途御無用せしめ候。此方よりせ重ねて様子申し入るべく候。大坂の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方は一所に付、三奉行の書状披見の為これを進せ候。恐々謹言」
出典元 小和田哲男「義光宛家康書状を読み解く」
これは家康が出羽の最上義光に宛てた手紙ですが、関ヶ原の前後で家康が書いた手紙はなんと150通。他に徳川重臣が書いた手紙もたくさんあります。いくら筆まめとはいえ驚異的な数ですね。来たるべき決戦を前にして、最大限やるべきことをやる。という家康の信念が伝わってきますね。
6-4.実証された手紙の威力
家康にあって三成になかったもの。それはやはり手紙の内容そのものでしょうか。家康は「味方してくれれば領地が増えるぞ」「こんな良いことがあるぞ」と実益にかなった内容を記しました。そうすることで相手に具体的なビジョンを示すことができたのでしょうね。
かたや三成はどうだったか?「豊臣家の御ため」「太閤殿下の恩義に報いるため」をただひたすら繰り返すばかりで、そこには相手にとって魅力的な内容など、どこにもありませんでした。今さら過去のしがらみを訴えかけられても相手が心を動かすことなどなかったことでしょう。
結果どうだったか?家康に応じた京極高次、細川幽斎らは多くの西軍大名を釘付けにし本戦に間に合わせず、本戦においても配置されていた多くの西軍武将たちが内応したか、傍観する立場に終始しました。もし家康の手紙がなければどうなっていたのか?合戦の結果はまた違うものになっていたかも知れませんね。
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戦国時代の戦術は現代にも通じる?
何らかの大きな仕事を為す前に、出来る限りの準備をしておくことは非常に重要なことです。それは根回しだったり、文書を揃えることだったり、マメな連絡だったり。特に相手のある交渉や商談などは、こちらが誠心誠意の熱意を持たなければ成立するとは言えないでしょう。ベストを尽くすこと。それは戦国時代であっても現代であっても変わらないのかも知れませんね。
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