2-1. 足利義昭に仕え、信長との仲介役となる
朝倉義景に仕えるようになった光秀ですが、義景のもとには足利義昭(あしかがよしあき)が身を寄せてきました。義昭は後の室町幕府15代将軍。この時はまだ将軍ではありませんでしたが、将軍だった兄・足利義輝(あしかがよしてる)が暗殺されたため、京都から逃れてきたのです。義昭は、自分が将軍となるのに義景の力を借りたいと思っていたのでした。ここで光秀は義昭の知遇を得たのです。
しかし、義景はいっこうに動こうとせず、苛立った義昭は、織田信長に助力を求めることにしました。そして、連絡役を任されたのが光秀だったのです。このことからも、光秀の能力が高く、信頼されていたことがわかりますよね。相当のハイスペックだったんだろうと思います。
それに加え、光秀には人脈がありました。信長の正室・濃姫は彼にとってはいとこに当たる女性だったのです。濃姫の母・小見(おみ)の方は、光秀の父・光綱や叔父・光安の妹であり、光秀の叔母。光秀と濃姫は顔も知っていたかもしれません。このツテは、義昭と信長をつなぐには実に有益だったと言うわけです。
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2-2. 暗殺の危機から義昭を守り抜く
信長の協力を取り付けた光秀は、義昭の上洛にも参加し、なおかつ京都と周辺の政務を見るようになりました。義昭は晴れて将軍の座に就きましたが、信長が本拠地・岐阜へと戻ってしまうと、かつて彼の兄・義輝を死に追いやった三好方の重臣・三好三人衆が勢いを盛り返し、仮御所である本圀寺(ほんこくじ)へと攻め込んで来たのです。
この「本圀寺の変」では、光秀は幕臣として義昭と行動を共にしており、三好方を相手に奮戦したと言われています。鉄砲を使って敵を撃ったとも伝わっていますよ。ここでも鉄砲の腕が役に立ったのかもしれません。
そして義昭を守り切った光秀は、このころから義昭だけではなく信長にも仕えるようになっていくのです。
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2-3. 信長に用いられすぎて過労死寸前
信長の武将の一員となった光秀は、多くの戦いに参加し次々と武功を重ねていきました。
信長が苦戦した戦いの殿(しんがり/部隊の最後尾)を引き受けたり、比叡山の焼き討ちに際しては実行部隊を務めたりして存在感を増し、やがて近江(おうみ/滋賀県)に居城・坂本城を建設し、信長の直属の家臣となりました。
とにかくこの頃の光秀はよく働き、戦三昧の日々を送っています。もちろんこの他にも奉行などの政治的な役割もはたしており、休む暇などない生活でした。
このためか、天正4(1576)年には過労で倒れてしまい、生死の境をさまよっています。この時に看病したのが愛妻・熙子であり、彼女は光秀が全快した後に看病疲れで亡くなってしまうほど尽くしました。
過労死寸前になるほど働いた光秀ですが、それは信長の信頼が厚かったことの裏返しでもあります。
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2-4. 丹波平定を実現し、信長から絶賛される
そんな中で、光秀はとても難しい作戦に着手しました。
丹波(たんば/京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部付近)攻めと呼ばれるものがそれであり、ここは地形的にも山がちで攻めにくかった上に、地方領主の勢力が強く、平定するのが非常に難しい場所で、しかもここには「丹波の赤鬼」と呼ばれ恐れられた赤井直正(あかいなおまさ)という武将がいました。
光秀は彼の家臣をひそかに寝返らせていたはずだったのですが、ここぞというときに裏切られ、あわや全滅の危機に瀕して逃げ帰らざるを得なくなります。これが1回目の平定戦でした。
それからしばらくは、光秀は別の場所で戦に臨んでいます。信長最大の障壁・石山本願寺、紀州や加賀への出兵、そして信長を裏切った松永久秀(まつながひさひで)との信貴山城(しぎさんじょう)の戦いなど、過労から回復したにもかかわらず、また過労になりそうな勢いで働きました。
それらが落ち着いた後、2回目の丹波平定戦に光秀は心血を注ぎます。赤井直正が死去したため、周辺の領主たちは次々と光秀に降伏し始め、ついに平定を果たしました。
信長は光秀をべた褒めし、「丹波での光秀の働きは、天下の面目を施した!」とまで言ったそうです。
光秀のすごいところは、丹波攻めに専念しているのではなく、同時に他の地方にも出兵し、なおかつ政務にも当たっていたという点だと言えるでしょう。組織力やコミュニケーション能力、計画性などすべてに秀でていたと考えていいと思います。
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