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織田信長に仕えた黒人の家来「弥助」とは?わかりやすく解説

織田信長のすごいところは、戦に強かったのはもちろんのことですが、新しいものや外国から来たものに偏見なく接したところでした。南蛮渡来の珍品を身に付けたり、いち早く鉄砲を取り入れたりしたのはもちろんですが、彼はなんと、黒人の家来を従えていたというんです。その名は「弥助(やすけ)」。信長の最期を知る貴重な存在ですが、彼はいったいどんな人物だったのでしょうか。その謎に迫ってみたいと思います。

肌の黒い奴隷・弥助

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弥助の身分は、もともとは黒人奴隷だったそうです。では、彼はなぜ日本にやって来ることになったのでしょうか。それには、当時日本にやって来たキリスト教宣教師たちの存在がありました。弥助を見た日本の人々の反応を含め、彼と信長との出会いなどをご紹介しましょう。

キリスト教宣教師によってもたらされた文化、そして弥助の来訪

天文19(1549)年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによって、日本にキリスト教がもたらされました。以後、キリスト教は日本で徐々に信者を獲得していくことになります。同時に、ヨーロッパなどからの品々が日本に運び込まれ、「南蛮渡来」の珍品として貴重がられることとなりました。

そして、天正7(1579)年、イタリア人の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが長崎に上陸したのです。この時、彼が連れていたのが、ある黒人奴隷でした。彼こそ、後に弥助という名を与えられる人物です。

日本人は弥助を見て仰天

当時、ヨーロッパの国々はアフリカ方面に進出し、多くの奴隷を連れ帰っていました。おそらく、弥助もそうした奴隷たちのひとりだったのだと思われます。そして日本にやって来ることとなったわけですが、実際に、日本には西洋人が黒人をお供にしている絵が残されているんですね。ですから、弥助がそのようにして連れてこられたのも納得がいきます。

そして、天正9(1581)年、ヴァリニャーノはほぼ天下を手中に収めた権力者・織田信長と謁見しました。その時、信長の目に留まったのが、ヴァリニャーノの側に控えていた体格のいい黒人奴隷だったのです。しかも、身長は180センチを超えていたそうで、当時の男性の平均身長が約157センチだった日本人からすれば、同じ人間だとは思えなかったのでしょう。当時の記録にも、「十人力」であるとか、「牛のように黒い」「黒坊主」などの記述が残されているそうです。また、このことを聞きつけた一般市民が、一目見ようと殺到したそうですよ。

信長、弥助を洗わせて肌の色を確かめる

何せ、ほとんどの日本人が西洋人さえ見たことがない時代。肌の色が黒いなどとは、想像もしていませんでした。ですから、さすがの信長も「本当に肌の色なのか?」と疑い、服を脱がせて洗わせたりしたそうですよ。当たり前なのですが、肌の色は黒いまま。

しかしそこで納得したのが、やはり信長が常人とは少し違う度量の持ち主だったところです。しかも、彼はこの黒人奴隷にいたく興味を示し、ヴァリニャーノに対して「こいつを譲ってほしい」と頼んだのでした。

こうして、一介の黒人奴隷は信長に召し抱えられることとなり、「弥助」という名前を与えられたのです。しかも、武士としての待遇を与えられたのですから、当時としては考えられないようなことでした。信長には何らかの考えがあったのかもしれません。

信長の家臣となり、本能寺の変を経験

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信長の家臣となった弥助は、ボディーガードのような役割をつとめ、常に信長のそばに控えるようになりました。しかし、そんな日々も長くは続きません。弥助の運命を再び大きく動かしたのは、本能寺の変でした。弥助はその時どうしていたのか、彼の行動を見ていきたいと思います。

信長は弥助を殿様にしようとしていた!?

信長に出会い、仕えることとなった弥助。実は、信長は、ゆくゆくは彼に城を与え、さらに上の待遇をしようと思っていたそうですよ。言葉の問題はどうだったのかと疑問に思いますが、能力第一主義の信長がそこまで考えていたというならば、弥助には信長が気に入るほどの能力があったのだと推測できますね。

そして、弥助が信長のそばに控えていたことは、きちんと記録に残されています。徳川家康の家臣の日記には、信長が武田氏を滅ぼした戦の帰り道で弥助を目撃したことが記されているんですよ。

本能寺の変に居合わせ、生き延びた数少ない存在

信長と出会ってからわずか1年後。多くの人々の運命を変え、日本を震撼させる大事件が起きました。天正10(1582)年の「本能寺の変」です。

思いもよらぬ明智光秀の謀反により、あっけなく信長は討たれてしまいました。

この時、弥助はその場に居合わせています。攻め寄せる明智の軍勢を相手に戦ったことと思われますが、彼は最後に何とか脱出を遂げました。そして急を知らせるため、別の場所に逗留していた信長の息子・信忠(のぶただ)のもとへと急いだのです。

信忠もまた、明智勢に攻められながらも最後まで奮戦しました。ただやはり多勢に無勢、父同様に彼も討たれることとなってしまいます。

弥助もまた、主を守ろうと獅子奮迅の活躍を見せたそうですが、力尽き、ついに投降したのです。

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