2-5. 10年たらずで信長陣営の重鎮に
天正9(1581)年、光秀は京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)の責任者に任ぜられました。これは、天皇の前で行う軍事パレードのようなもので、信長の力を天下に示すためにとても重要なパフォーマンスでした。これを大成功させたことで、信長からの信頼はますます高まり、光秀は織田陣営で五本の指に入るほどの実力者に出世したのです。
この時、光秀が信長に仕えるようになってからまだ10年ちょっと。実力主義だった織田政権ですが、このスピードは驚異的です。あの豊臣秀吉の出世スピードよりも速いくらいだったんですよ。しかも、光秀は教養もある人物だったので、この時点では秀吉よりも少し上にいたわけです。こうして見てくると、光秀は相当すごい人材だったことがわかりますね。
出自もはっきりしない自分を取り立ててくれた恩人だから…と、光秀は信長に尽くすことを改めて誓ったに違いありません。
実際、光秀は「がれきのように落ちぶれていた自分を召し出し、取り立ててくれた信長公に、一族家臣、子孫まで奉公を忘れてはならん」と家法に記しているほどです。
これが、本能寺の変のわずか1年前のこと。たった1年の間に、どうして光秀は主君を殺害しようという思いに至ったのでしょうか。
3. 運命の転換「本能寺の変」と謎
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光秀はとても真面目な男でした。それが災いしたのか、徐々に主君・信長との間に溝ができてしまいます。戦国時代最大の謀反であり、最大の謎でもある本能寺の変に至り、破滅を迎えるまでの光秀についてご紹介しましょう。
3-1. 信長との関係が悪化し、ついに本能寺の変が勃発
天正10(1582)年5月、光秀と信長との間には亀裂が生じてしまいました。
光秀は徳川家康の饗応役を命じられていたのですが、突如としてその任を解かれ、秀吉が中心となって行っている中国地方の毛利氏討伐への援軍となることを命じられたのです。饗応役解任に関しては、信長が「料理が腐っている」と言い出したという説もありますね。
光秀は信長の命令通り、兵を率いて中国地方に向かいました。
しかし、彼はその途中、信頼する重臣たちに信長討伐の意思を密かに打ち明けたのです。
光秀が美濃を追われてからずっと付き従ってきた明智秀満や家老の斎藤利三(さいとうとしみつ)などは、当初は反対しました。しかし、光秀の決断を尊重し、最終的には彼についていくことを受け入れたのです。
そして、6月2日、光秀は軍勢を率いての行軍中に「敵は本能寺にあり!」と叫び、進路を転換。信長がわずかな供を連れて投宿していた京都の本能寺を襲撃し、信長に態勢を立て直す暇も与えず、死に追い込んだのでした。間髪をいれず、信長の息子・信忠(のぶただ)が滞在していた二条新御所も襲って死に至らしめ、光秀は京都を掌握したのです。これが有名な「本能寺の変」でした。
3-2. なぜ光秀は信長に謀反したのか
光秀がなぜ信長に反逆したのかについては、今も謎が多く、はっきりとした理由がわかっていません。
日頃、信長に「キンカ頭(はげ頭)」と罵られ、パワハラまがいの仕打ちを受けていたことが理由であるとか、前述のように饗応役を理不尽に解任されたことなども推測されますが、自分で天下を取ろうとしたという説や、徳川家康や豊臣秀吉が黒幕だという説もあるなど、光秀の本心はいまだ判明していないのです。
一方、光秀は斎藤利三の妹が四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の正室となっていたこともあり、元親と信長の仲介役を任されていました。当初は信長が元親を攻めるはずでしたが、光秀の尽力により何とか穏便に事が運ぶ手筈となっていたのです。ところが、突然信長は約束を反故にして、元親を討つと言い始めました。これでは光秀の立場がありません。このように、面子を潰されたことが要因だという説もあるんですよ。それに、元親が討伐されてしまえば、光秀の功績は無に等しくなり、一方で中国征伐に功績を挙げている秀吉はさらに評価され、立場が逆転することになります。それが耐え難かったという説もあるそうですね。
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3-3. 光秀と秀吉が激突!山崎の戦い
信長やその息子の信忠(のぶただ)を討った後、光秀は京都に加えて安土城を掌握します。
そして、周辺の有力武将に加勢を呼びかけたのですが…返事は軒並み「No」でした。娘婿の細川忠興や、その父・細川藤孝ですら中立を表明し、信長時代には協力関係となっていたはずの筒井順慶も日和見を貫いたのですから、光秀が焦りに焦ったことは想像に難くありません。
しかも、光秀にとっては予想外だったことは、中国地方へ行っていた秀吉がたった2週間という速さで戻ってきたことでした。秀吉は毛利氏との交戦中に本能寺の変の凶報を聞き、そこからすぐさま和睦をまとめあげて京都まで戻って来たのです。
秀吉の率いる軍勢は4万、対する光秀の軍は1万6千ほど。しかも、秀吉の軍は織田の主力でもあり、信長の三男・信孝(のぶたか)もいましたから、周辺武将の協力を得られず士気が落ち気味の光秀軍よりはるかに優勢でした。
こうして、両軍は京都府の天王山(てんのうざん)のふもとで激突します。これが山崎の戦いです。よく、運命を決する局面や勝敗が重要な時に「天王山」という言葉を使いますが、この時の戦いに由来するものなんですよ。
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