3-4. 敗れた光秀の「三日天下」
山崎の戦いは、諸将の協力を得られなかった光秀の大敗に終わりました。敗走した光秀は、居城の坂本城を目指しますが、途中で落命します。落ち武者狩りに襲われたとも、そこを逃れたものの自刃したとも言われていますよ。
信長を倒し、光秀が天下を握ったのはほんのわずかで、実質11~12日間のことでした。これが「三日天下」の由来です。
光秀の死後、坂本城は攻められて落城し、明智一族や重臣たちはほとんどが命を落としました。このため、光秀の子供たちの行方は、細川忠興に嫁いでいた娘のガラシャ以外ははっきりとしていません。
明智秀満は安土城に入っていましたが、光秀敗れるとの報せに、本拠地・坂本城へと向かい、籠城します。そして秀吉方に包囲されると、自害して果てました。斎藤利三は落ち延びますが捕らえられ、斬首となりました。ちなみに、彼の残された娘・お福は逃げのび、やがて家康の孫・徳川家光(とくがわいえみつ)の乳母となり、「春日局(かすがのつぼね)」と呼ばれるようになります。
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3-5. 信長との関係と光秀の性格
信長は、能力さえあればどんな身分でもかつての敵でも登用する人物でした。世が世なら信長に対面することさえできなかったはずの光秀でしたが、信長に認められたからこそ、日の目を見ることができたのです。そして、彼の能力はまさに、信長にとって「かゆいところに手が届く」ものだったのでしょう。そして光秀は信長に深く感謝し、忠実に尽くしました。
しかし、気まぐれで時に苛烈な信長の行動や言動は、光秀を振り回します。やがてそれに疲れていったはずですが、光秀があまりにも真面目で職務を忠実に遂行する人物だったがゆえに、2人の間にはひずみが生じ、やがて爆発してしまったのかもしれません。
3-6. 宣教師から見た光秀
信長と親しく交流したキリスト教宣教師のルイス・フロイスは、光秀についてもう少し違う見方をしています。「裏切りや密会を好む」としており、「己を偽るのに抜け目なく、計略と策謀の達人だった」、「寵愛を保持し、増大するための器用さを備えていた」など、光秀が狡猾に立ち回っていたように見ていたようです。あくまで部外者の立場から見た、客観的な視点と言えるかもしれません。
とはいえ、光秀が信長に忠実に尽くしたことは歴史に残されている事実から明らかです。あっという間にあの織田信長の重臣となることができた光秀は、主君とのズレを予見できなかったのでしょうか。その判断を失わせるほど、彼を本能寺の変へと突き動かした衝動が大きすぎたのでしょうか。今となっては想像するしかありませんが、言えることは、光秀は一般的なイメージよりもずっと有能な人物だったということです。何か小さなボタンの掛け違えが、彼を謀反へと追い込んでいったのだと思います。それは、時のいたずらのようなものだったのかもしれません。
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3-7. 領民や部下を愛し、慕われた光秀
いったいどれが光秀の本当の顔なのかと悩むところですが、光秀は福知山の地では善政を行い、領民にはとても慕われていました。城下町を整備し、領民の税を免除し、治水工事を行うなどして、街の発展につとめたのです。
また、戦で討死した家臣を弔うために、供養米を寺に収めてもいました。それだけではなく、負傷した家臣に見舞いの手紙を書いたり、戦場で命を落とした兵卒に至るまで気にかけたりもしていたのです。
こうしたことを、フロイスの言うような「己を偽るのに抜け目ない」部分と見ることができるのでしょうか。領民を慈しむ光秀の姿には、そうした姿を読み取ることはできないように思えます。
光秀は単なる反逆者ではない
信長の遺志を継ぐ形で天下を取った豊臣秀吉により、光秀のイメージはより「反逆者」としての印象を強くしていきました。これが現代にまで続いたのですが、近年では光秀を見直す動きが見られています。大河ドラマ「麒麟がくる」での描かれ方も興味深いので、ぜひ、この機会に明智光秀を見直してみませんか?