日本の歴史昭和

日本が降伏していなかった未来…アメリカによる「本土決戦」とは?わかりやすく解説

1945年8月15日。この日日本は昭和天皇の英断によってポツダム宣言を受け入れて戦争は終結することになります。 しかし、もし日本が降伏しなかった場合アメリカは日本に対して上陸する予定だったのです。 今回はそんなアメリカ軍による上陸作戦と日本が想定していた本土決戦について解説していきたいと思います!

もし降伏しなかったら。アメリカによる日本上陸作戦

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日本が無条件降伏したことによってアメリカの日本上陸作戦は立ち消えとなりましたが、もし日本が頑なに降伏せずにアメリカの日本上陸作戦が行われた場合どうなっていたのでしょうか?

まずばアメリカがどのようにして日本を責めようとしていたのかについて見ていきたいと思います。

決定的となった戦局

1941年12月8日に日本が真珠湾を攻撃して始まった太平洋戦争。序盤こそ南方戦線といった形で日本の優勢で進められていた戦争でしたが、ミッドウェー海戦やガダルカナル島での敗戦を機に徐々に日本の戦局は悪化。さらにはサイパン島の陥落によって日本本土への空襲が激化し、さらには日本が「太平洋の天王山」としていたフィリピンの戦いで決定的な敗北を喫したことによって日本の勝利は絶望的なものとなってしまいました。

アメリカはこの末期的な戦局の決定的な優勢を見て日本本土への侵攻作戦を密かに進めていくことになったのでした。

硫黄島と沖縄

フィリピンの戦いの最中に行われていた日本聯合艦隊によるレイテ沖海戦によって日本は大敗。その結果制海権を完全に喪失し、日本への侵攻は時間の問題となっていくことになります。そんな状況下でアメリカがまず目をつけたのが硫黄島と沖縄でした。

1945年2月19日。アメリカ軍は硫黄島へと上陸を敢行。日本軍による粘り強い抵抗により1ヶ月以上戦う長期戦となりましたが、圧倒的物量を誇るアメリカ軍になすすべなく日本軍は玉砕。硫黄島の占領に成功します。

さらに3月26日にはついに沖縄に上陸。54万の連合軍が沖縄に上陸し、沖縄に駐留していた日本軍と激しい戦闘を繰り広げましたが、ここでもアメリカ軍は日本軍を粉砕し3ヶ月後に占領することに成功しました。

ポツダム宣言

沖縄戦が終了した後、日本の降伏は時間の問題となりました。しかし、連合軍はこの状況下でも戦闘行為を続けていくことになります。

一方で日本では戦争は負けたとしても日露戦争においてアメリカが仲介してくれたようにこの当時日本と不可侵条約を締結しているソ連がアメリカと日本の間に入り仲介してくれるだろうと考えていました。

さらに、この頃の日本にとって天皇の存続つまり国体の護持に関することは死活問題。このまま敗戦したところで天皇が消滅するとなれば降伏するよりも一億総玉砕した方がマシだと考えている人も多くいたのです。

日本からしたら「天皇の存続が認められたら降伏してもよい」というスタンスでしたが、ポツダム宣言にはこのことがあまり詳しく書かれていませんでした。しかし、日本は8月6日に広島に、8月9日に長崎原爆が投下されたことによって日本は降伏の道を突き進むことになります。

しかし、もしここでも降伏しなかったら日本にはアメリカとの本土での決戦を計画していました。

日本の決号作戦

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もう決定的な敗北となった日本にとって残された道は一回でもいいからいい戦果を挙げて講和条件を自国に有利となるようにすることでした。要するにベトナム戦争みたいな感じになってくれれば日本としたら大万歳というわけだったのですね。

またこの状態においては国体護持が超最優先課題であったため、天皇を東京の宮城(皇居)から長野の松代大本営への移転を決めてそこで全作戦の指揮を執るという形となることが決められました。さらに作戦の総指揮を執っていた参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』という形でアメリカの進行を食い止めるための陣地を九十九里浜、鹿島灘、八戸、そして日本が一番懸念していた鹿児島に建設を命じました。

でも陸軍は戦力の大半が中国やビルマなどに駐留して戦闘を行っていたため本土はガラガラ。そこでそのガラガラとなっている本土に急いで防衛を行うために日本各地の兵やアジアに進出している部隊の一部を日本防衛のために集約。また根こそぎ動員と呼ばれる文字通り子供から老人まで戦えそうな人はとにかく兵士として徴集する根こそぎ兵員を国民から行い、総勢150万人以上をかき集めることに成功しました。ちなみに最終的には男子15歳から60歳、女子17歳から40歳までの日本国民2600万人を主力の陸海軍500万人と共に本土決戦に投入するとされていました。

日本軍が想定している上陸時期は1945年の10月頃。その日までに急ピッチで作戦を練ることとなるのです。

連合国のダウンフォール作戦

連合軍によるダウンフォール作戦は主にオリンピック作戦とコロネット作戦の2段階に分かれていました。ダウンフォールとは「滅亡」という意味があり、文字通り日本を滅亡させる作戦でもあったのです。

アメリカのオリンピック作戦

アメリカ軍はまず手始めに1945年11月1日に南九州への上陸を考案していました。アメリカ軍は南九州に上陸するために空母42隻を始め、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦が投入される予定であったとか。陸上部隊は14個師団の参加が予定されていたそうで、もしこのままオリンピック作戦が実行されていたらノルマンディー上陸作戦を超える規模になっていたとされています。

連合軍は種子島などの奄美諸島に上陸した直後にそこを拠点としながら鹿児島に上陸。そこで毒ガスなどを使いながら九州の重要拠点を集中攻撃して占領するつもりだったそうです。

ちなみにこの作戦によって占領した九州は前進基地として使用する予定でした。

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