室町時代戦国時代日本の歴史

武勇伝で選ぶ戦国武将ランキングTOP10!逸話や裏エピソードをわかりやすく解説

4位 討ち取った首に笹をくわえさせた「笹の才蔵」こと可児吉長

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「笹の才蔵(さいぞう)」との異名を取った槍の名手・可児吉長(かによしなが)については、武勇伝以外の何物でもない逸話が残されています。

常に笹を指物(さしもの/戦場で自分を示す目印)として背負っていた吉長ですが、討ち取る敵の数があまりにも多く、首を取っても腰にぶら下げきれないことがしょっちゅうでした。

ある時、吉長は「首を16取りました」と言って戦場から戻りましたが、持っていたのは首3つ。そのため、主が「3つしかないぞ」と言うと、「重すぎて捨てたのです。その代わり、取った首には笹の葉をくわえさせてきました」と吉長が答えるので、調べさせてみると、確かに笹の葉をくわえた首が13、戦場に残されていたのでした。以後、彼は取った首に笹の葉をくわえさせるようになり、彼の呼び名を取って「笹の才蔵」と呼ばれるようになったとか。

後に福島正則(ふくしままさのり)に仕えた吉長は、関ヶ原の戦いでも17の首級を挙げ、徳川家康から絶賛されました。

3位 家康を追いつめ、死を覚悟させた男・真田信繁

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大河ドラマ「真田丸」で一気に人気が出た真田信繁(さなだのぶしげ)「真田幸村(ゆきむら)」の名でもおなじみですね。父親は真田昌幸(さなだまさゆき)です。

実は、彼の武将としての功績は、関ヶ原の戦い以降にしか見られません。そして、彼の最大の武勇伝は、彼の最期の戦いとなった大坂夏の陣で作られることになりました。

大坂冬の陣で「真田丸」という出城をつくり、徳川方の軍勢を翻弄した信繁ですが、講和によって真田丸は壊され、大坂城は堀も埋められて裸同然の城となってしまいます。

そして夏の陣では多くの豊臣方の武将が徳川方に戦いを挑み、次々に討死を遂げていきました。

多くの仲間を失い、敗戦の二文字が豊臣方の誰もの頭にちらついてきた頃、信繫は敵方の総大将・徳川家康の本陣への突撃を決断します。

信繫は、猛然と家康本陣へと突撃すると、なんと家康の親衛隊1万5千を突破し、家康の本陣に二度も突撃を敢行したのです。その猛攻の前に、あの家康が二度も自害を覚悟したと言われているんですよ。

あと一歩で家康の首を取れる…というところまでいきましたが、あまりの敵の多さに、信繫は力が及ばなかったことを悟り、撤退し、疲れ切った体を休めていた神社で敵兵に討ち取られたとも伝わっています。

信繫の活躍は、後に「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と称せられました。彼の人気を今でも高からしめているのは、この武勇伝があったからにほかなりません。

2位 16万の大軍相手に堂々と対峙した「天下無双」の本多忠勝

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徳川家康を支えた4人の重臣は、徳川四天王と呼ばれました。中でも、本多忠勝(ほんだただかつ)は最も武勇に秀でた戦国武将。生涯57度の戦に参戦してもかすり傷ひとつ負わなかったと言われています。

家康と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いでは、留守役をつとめていた忠勝ですが、主君・家康が秀吉の大軍の前に大苦戦しているとの報に接するや否や、500騎を率いて城を飛び出しました。

そして駆け付けた彼の前には、16万という豊臣方の大軍が待機している姿。しかし忠勝はまったく怯むことなく、たった一騎で大軍と自分たちとの間を隔てる川に悠然と乗り入れ、馬に水を飲ませ始めたのです。

彼の堂々たる態度に、豊臣軍の方が気圧されてしまいました。豊臣方はこれ以上の進軍を諦めて兵を引き、家康のピンチは去ったのです。忠勝の武勇が天下に鳴り響いていたからこそ、敵兵は何も手出しできませんでした。

のちに、天下人となった秀吉は忠勝を「東国一の勇士よ!」と賞賛しました。家康もまた、「まこと我が家の良将だ」と、事あるごとに忠勝を褒めたたえています。存命中の織田信長でさえも、忠勝には賛辞を贈ったと言われていますよ。

1位 戦国最強の島津義弘、関ヶ原での戦いでの伝説の退却劇

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九州統一をほぼ目前にして豊臣秀吉に屈した薩摩(鹿児島県)の島津氏ですが、島津義弘(しまづよしひろ)は戦国最強との呼び声が高い名将です。多くの戦で無類の強さを誇り、李氏朝鮮との戦役である文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では、敵軍に「鬼島津」と呼ばれ恐れられました。

歴戦の名将である義弘の戦いの中で、彼の名を最も高からしめたのが、関ヶ原の戦いにおける退却劇です。

義弘は西軍として参加していましたが、西軍が敗れたために敵中に孤立してしまいました。絶体絶命のピンチの中、彼はわずか300人ほどで敵中突破することを決断します。「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれたその戦法は、数人が敵を足止めして全滅する間に逃げるというすさまじいものでした。多くの家臣たちが義弘のために死ぬことを志願して倒れていく中、義弘は先頭に立って敵中に斬り込み、徳川四天王の本多忠勝(ほんだただかつ)を落馬させ、井伊直政(いいなおまさ)や家康の息子を負傷させるなど驚異的な猛攻を見せ、敵中突破を果たしたのでした。この武勇伝は「島津の退き口(のきぐち)」といい、彼は今でも軍神の呼び声高い武将となっています。

武勇伝が戦国武将をより魅力的に見せてくれる

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戦国武将につきものの武勇伝ですが、彼らをより魅力的に見せてくれることは間違いありません。忠義一徹の武将や、並外れた暴れん坊など、たくさんの武将たちの武勇伝は歴史を彩っています。皆さんはどの武将がお好みでしたか?

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