豊臣秀吉:太閤検地と刀狩で天下統一を揺ぎ無きものに
豊臣秀吉は平民の出ですが、関白や太政大臣といった役職や位を得ています。
天下人となったからといって朝廷と対立するのではなく、朝廷の権威をうまく利用して天下に力を示したのです。
秀吉はとにかく、天下統一にこだわって物事を進めていました。先の先を読み、人を動かし、利用できるものは何でも利用し、豊臣政権を揺るぎなきものにするため知恵を絞ります。
そのひとつが刀狩りです。農民たちから武器を取り上げ、身分制度を整備して、農民は農業、町人は商売に専念させます。
さらに進めたのが検地(太閤検地)。それまで、お米の収穫量や田んぼの面積を図る単位が統一されていませんでしたが、これを統一し、田畑の面積をきっちり管理。ただ武力だけでなく、管理もきっちりしているところを見せて賢く政務を行っていったのです。
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徳川家康:武家諸法度と一国一城令で江戸幕府も安泰
徳川家康は関ヶ原を制し、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣一族を滅ぼしました。
家康は鎌倉幕府を開いた源頼朝を尊敬していたといわれています。頼朝をまねたのかどうかはわかりませんが、同じように征夷大将軍に任命され、幕府を開きました。京都から遠く離れた江戸という地に巨大な都市を築き、政治の中心を西から東へ。新しい政治体制の基礎を築きます。
徳川幕府はもう安泰でしょ、と、現代人なら結果が分かっているのでそう思いがちですが、当時の家康にとっては、まだまだ、誰かが反旗を翻して幕府を倒そうとするかもしれない、と心配事は山積みだったはずです。
そこで家康は、全国の大名に対して様々な命令を下します。
まず、武士のための法律「武家諸法度」の発布。大名たちにそれぞれ各地の統治をさせつつ、幕府に歯向かってこない程度に力を削ぎ、それとなく自由を奪う厳しいお達しです。
また、やたらと城を築かないよう「一国一城令」なる命令も。特に、江戸から遠く離れた西日本のほうの大名たちの動きを封じることが目的だったようです。
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