「八月十八日の政変」と「七卿落ち」
実は、孝明天皇は行幸には後ろ向きで、薩摩藩に救いを求めたと伝わっています。
実美の半ば強引ともとれる尊王攘夷の動きは、皮肉なことに実美を追い詰める結果となってしまいました。
文久3年8月18日(1863年9月30日)、薩摩藩や会津藩など「公武合体派」が、攘夷派の中でも急進的で過激な存在だった長州藩などを京都から追い出す……という、いわゆるカウンタークーデターを起こします。世にいう「八月十八日の政変」です。
この政変で、三条実美を含め7人の公家が、京都を追われ、長州へと流れていきます。この時、実美は27歳でした。
都落ちとなった公家は、いずれも高い位を持つ者ばかり。この一連の事件のことを七卿落ち(しちきょうおち)と呼んでいます。
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新政府の要職として政界に返り咲き
三条実美は七卿落ちから大政奉還(1867年11月)までの4年ほどの間、政治の表舞台から退き、蟄居生活を余儀なくされます。
この間も、禁門の変や下関戦争など、幕末を揺るがす大きな出来事が次々と起き、日本は大きく変化。しかし実美はなかなか中央に復帰する機会に恵まれず、1865年から福岡・大宰府に幽閉となってしまうのです。
しかし時代は刻一刻と変わり、幕府の力が弱まると、実美にも中央復帰のチャンスが巡ってきます。そのきっかけが、かつて対立関係にあった宿敵・岩倉具視との提携。悩んだ末、実美はこの策を受け入れ、政界復帰を果たします。
新政府では岩倉とともに副総裁となり(総裁は有栖川宮親王)、事実上のトップに。明治維新の中心人物として政治手腕を発揮していくこととなるのです。
「征韓論」で板挟み・心身ともに疲弊
しかし、政界復帰した三条実美の役割は、政治の主導者というより、政府内の取りまとめや調整役といった色合いが強くなっていました。
もう、以前のような、急進的な攘夷論を唱える三条実美はいません。
政府の要職についた者たちは、いずれも高い能力を持っていましたが、組織としては決して「一枚岩」とは言えませんでした。薩摩と長州のように、以前宿敵関係だったことから意見の対立や言い争いが絶えなかったのです。
そんな中、岩倉具視を中心とした「岩倉使節団」が編成され、政府の重要人物たちが大勢、欧米へ出かけてしまいます。留守を預かった三条実美は一層、調整役として奔走することに。よく言えば強い信念を持つ、悪く言えば我の強い連中をまとめて政務を動かすには、相当な苦労があったと思われます。
使節団が外遊している間、留守政府では多くの問題が発生していました。特に大きな問題となったのが、朝鮮出兵の是非を問う「征韓論(せいかんろん)」です。
そこに、大した成果もないまま金だけ使って戻ってきた岩倉使節団が、留守中の政府のバラバラ加減に文句を言ったり、まとまらないうちに西郷隆盛が離脱するなど、政府はバラバラになってしまいます。
実美は何とかみんなをまとめようと奔走。心身ともに疲弊し、心臓の病で倒れたこともあると伝わっています。
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