- なぜ起きた?七月革命が起きるまでの流れをチェック!
- 激動の18世紀末:フランス革命はなぜ起きたのか?
- 波乱の19世紀初頭:ナポレオンは救世主だったのか?
- ナポレオン戦争の後始末:ウイーン体制と王政復古
- フランス革命を忘れたの?ルイ18世とシャルル10世
- 七月革命勃発!「栄光の3日間」とその後の動き
- 逆戻りかよ!復活した王政に市民の不満は爆発寸前
- 1830年7月27日:パリ市街地を占拠する庶民たち
- 1830年7月29日:ルーブル宮陥落・国民王の誕生
- ウィーン体制崩壊:七月革命が及ぼした影響とは
- 「二月革命」というのもあるよね?どう違う?
- 復活した王政への不満と不安が爆発!ヨーロッパ中を巻き込んだ「七月革命」
この記事の目次
なぜ起きた?七月革命が起きるまでの流れをチェック!
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「革命」と名が付くからには、何かしら起きる要因があったはず。七月革命も、フランス革命に端を発し、ナポレオンの台頭と失脚、ブルボン王朝の復活など、様々な出来事の影響があって起きた革命です。この頃のフランスは激動に次ぐ激動、混迷を極め、国民の多くは武器をとって自分たちの進むべき道を模索していました。まずはそんな、七月革命が起きるまでのフランスの情勢を追いかけてみたいと思います。
激動の18世紀末:フランス革命はなぜ起きたのか?
フランス革命が起きた理由については、だいたい理解できている、という方も多いと思いますが、簡単におさらいしておきましょう。
フランス革命は別名「資本主義革命・ブルジョア革命」とも呼ばれています。これは、封建的な身分制度や領主制度を排除し、法の下ではみんな平等であり自由であり、人権を保障するものである、というもの。ルイ14世やルイ15世のような、ブルボン王朝の絶対王権とそれにくっついている貴族たちに長年虐げられてきた市民たちによる市民革命です。
フランス国民は、国王と貴族たちの贅沢な暮らしや戦争による出費などの影響で、長い間、高い税金に苦しめられてきました。国は破産状態だというのに、貴族たちは税金を払おうとしません。
ついに国民の怒りが爆発。1789年、バスティーユ牢獄の襲撃を皮切りに、フランス国民は革命の渦へと身を投じていくのです。
波乱の19世紀初頭:ナポレオンは救世主だったのか?
フランス革命の結果、僧侶、貴族、平民の3つの身分の代表者による議会「三部会」が開かれ、フランスは大きく生まれ変わりました。
しかし、過激な革命運動はなかなか沈静化せず、不安定な政治体制が続きます。そんな中、彗星のごとく現れたのが、英雄・ナポレオン・ボナパルトでした。
フランス国王ルイ16世が処刑されると、フランスは国内だけでなく国境付近も不安定になり、ヨーロッパの国々の標的に。混迷極める中、次々に戦果を挙げてのし上がってきたのが軍人・ナポレオンだったのです。国民は彼を英雄と称えました。
フランス革命で誕生した新政府は、不安定な情勢の中で体制を整えることができず、わずか10年ほどで崩壊。1804年、ナポレオンがフランス皇帝となり、フランス第一帝政が始まります。
しかしナポレオンの天下も10年ほどで崩壊。ヨーロッパ周辺諸国VSフランスという構図を残したまま、フランス国民は次のリーダーの出現を待つことになるのです。
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ナポレオン戦争の後始末:ウイーン体制と王政復古
是非はともかくとして、ナポレオンは強過ぎました。
革命の後で不安定だった国土を守るためだったとはいえ、あっちこっちの国々と戦争をしてヨーロッパ全土を巻き込み、軍事国家と化したフランス。イタリアやスウェーデン、スペイン、プロイセンなどが同盟を組みフランスと対峙するという、とんでもない状況に陥ってしまうのです。
さんざん暴れまわった結果、ナポレオンは失脚。残されたのは、ナポレオンに攻め込まれてフランスの領地になってしまった国々の残務整理。どうすれば元のヨーロッパに戻るの?対仏同盟の国々は頭を抱えていました。
ヨーロッパ再建を目指した国際秩序を「ウイーン体制」と呼びます。
元のヨーロッパに戻す、ということは、フランスにもしっかりしてもらわなければなりません。そこで対仏同盟の国々は、ルイ16世の弟にあたるルイ18世(プロヴァンス伯爵)を王位に据えます。これが、フランスの第一次王政復古(1814年)です。
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