イタリアドイツヨーロッパの歴史

世界史を動かした「三国同盟」とは?わかりやすく解説!

世界史ではいろんなところで三国が互いに同盟していき、協力体制を敷いてきたことがありました。 今回解説していく三国同盟もその一つ。そしてこの三国同盟は日本も動かしていく大問題へと発展していくのです。 今回はそんな三国同盟について解説していきたいと思います。

ビスマルクが作った三国同盟

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ビスマルクが作った三国同盟はドイツ・オーストリア・イタリアが結んだ軍事的相互援助同盟のことを指します。

元々ビスマルクは仲の悪かったフランスをなんとか孤立させる形でヨーロッパ外交を動かしていましたが、フランスのチュニジア占領に反発したイタリアが1882年に元々存在していた独墺同盟に加わったことで三国同盟が成立することになりました。

しかし、イタリアとオーストリアは未回収のイタリア問題が存在しており、第一次世界大戦が勃発すると未回収のイタリア獲得を目指すイタリアが協商国側と密約を結び同盟を離脱して、1915年に崩壊しました。

ビスマルク外交の成果として

三国同盟を形成することになるビスマルク。ビスマルクにとってもっとも警戒したのはフランスでした。フランスとドイツの関係ははっきりいうと最悪。フランスは普仏戦争によってアルザス・ロレーヌ地方を取られるなど普仏戦争の敗北以来ドイツに対する復讐心に燃えており、ドイツに対する敵対心がありました。

もちろんビスマルクはフランスの対応が大切だと思っており、そのためビスマルクは「光栄ある孤立」を保っている上にフランスと仲が悪いとされていたイギリスとの関係改善を目指していくようになり、さらにはアフリカにおいて縦断政策を推し進めていたこともあってアフリカ問題に介入。フランスとイギリスが手を結ばないようにしていくようになります。

また、ビスマルクは二正面から挟まれないようにロシアとオーストリアを誘って三帝同盟を1873年10月締結。これによってフランスが目論んだとされる二正面からの同盟ができなくなってしまい、フランスはますます孤立していくようになります。

しかしロシアとオーストリアはバルカン半島においてパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義のもと激しく対立していて、その仲立ちに苦労しており、なんとかベルリン会議にてビスマルクが「誠実なる仲介人」としてロシアとオーストリアの仲を調整しでいきましたが、結局決定にロシアは不満をもち三帝同盟は崩壊することになりました。仕方なく、ドイツはオーストリアとの間に独墺同盟を結成。さらにはなんとかロシアの機嫌を取り戻すことに成功して1881年三帝同盟を復活させました。

さらにフランスがチュニジアを手に入れたことでこの当時リビアを獲得したばかりであるイタリアと関係が悪化したことを見てイタリアを誘ったことでドイツ・イタリア・オーストリアによる三国同盟を締結。

いわゆる一連のビスマルク外交と呼ばれるこの外交体制によってフランスは孤立していくようになりました。

三国同盟の第一次世界大戦

こうしてビスマルク外交は成功に終わりましたが、その直後にビスマルクはヴィルヘルム2世に解任されたことでヨーロッパの情勢は大きく変わっていくことになります。ビスマルクが解任された後、フランスはロシアのシベリア鉄道の建設の援助を行うとして露仏協約を締結。さらにはイギリスとの関係も改善して三国協商を結成しました。

そしてロシアとオーストリアの関係がついに爆発。バルカン問題によって第一次世界大戦はが始まることになるのですが、この戦争は三国協商を結んでいたフランス、イギリス、ロシアを中心とする連合国側と三国同盟を結んでいたドイツ、オーストリアを中心とする同盟国側の戦いの様相を見せていくようになります。

最終的にはこれまでのヨーロッパでは経験したことがないような未曽有の大戦へと発展していきました

イタリアの裏切りと同盟の崩壊

こうして始まった第一次世界大戦。しかし、三国同盟の一員だったイタリアはオーストリアとの関係を悪化したままでした。1861年に成立したばかりのイタリアは建国以来オーストリアの支配下に置かれている未回収のイタリアと呼ばれた南チロルやヴェネツィアの奪還を目指していたのです。

イタリア国民にとってこの未回収のイタリアの奪還はイタリア国民からしたら悲願だったのでした。そのため、ビスマルクに誘われて三国同盟に入ったのはいいものの、領土問題を抱えているオーストリアに対しては敵対感情が強い状態が続いており、いつ同盟を抜けてもいい状態でもあったのです。

そのため同盟は結んでいるものの1914年に第一次世界大戦には参戦を拒否。しばらく傍観していましたが、その翌年に未回収のイタリアの奪還のためになんと三国協商の一員であるイギリスと1915年にロンドン秘密条約を締結して連合国側として参戦することになるのです。

こうしてこの時の三国同盟は脆くも崩壊したのでした。

ヒトラーが作った日独伊三国同盟

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日独伊三国同盟とは前の三国同盟が崩壊してから25年後の1940年に締結された日本・ドイツ・イタリアによる軍事同盟のことです。この3国はいわゆるファシズムを掲げており、後々の第二次世界大戦を戦っていくことになっていくことになるのでした。

ヒトラーとムッソリーニの同盟

第一次世界大戦に敗北したドイツ。ドイツはその後天文学的な賠償金をフランスから請求されてしまい、国家が破綻する寸前に追い込まれてしまいました。そしてこの不安定な状況を利用して1933年にヒトラー率いるナチス党が政権を掌握。合法的に独裁体制を築き上げていき、急速に軍国化を進めていました。

一方でイタリアでは1929年にムッソリーニがこれまた合法的に政権を掌握。国民の支持を受けてファシスト体制を整えてファシスト党の一党独裁を確立させます。こうして二国はいわゆるファシズムを掲げた独裁国家として成長を遂げていくようになるのですが、このイタリアとドイツには前のフランスみたいな仮想敵国が存在していました。ソビエト連邦です。

ムッソリーニはファシスト体制を揺らがそうとしている共産主義者を弾圧しており、ドイツはヒトラー自身が著書『我が闘争』の中に東方生存圏を唱え、ソ連を徹底的に破壊して東に勢力を伸ばすべきという考えを持っていたのでした。

ナチスと言ったらユダヤ人を敵視して虐殺していたイメージが強いですが、実はロシアのスラブ人も敵視していたのですね。そのため利害が一致した二国はソ連の共産主義を防ぐ目的の防共同盟という同盟を組んでいました。その後に同じくソ連のことを嫌っていた日本が加わり日独伊三国同盟が成立していくことになるのです。

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