イタリアドイツヨーロッパの歴史

世界史を動かした「三国同盟」とは?わかりやすく解説!

同盟の前段階

ドイツと日本とイタリアはともにソ連を仮想敵国としていました。

日本は1931年の満州事変以降、ソ連との武力衝突の可能性があったことから、ソ連の圧倒的な軍事力に対抗する必要があり、ドイツとの接近を図ります。ドイツはもともと中国と仲が良かったのですが、日本の傀儡国家であった満洲国を承認し、さらには日独防共協定をさらに発展させ日本との接近をはかりました。しかし、この直前にドイツが独ソ不可侵条約というものを結んだおかげで少し交渉が失敗になりかけてしまいます。

ドイツと同じ仮想敵国であったソ連と不可侵条約を結んだことは日本にも衝撃を与え、当時の日本の内閣総理大臣である平沼騏一郎が総理を辞任するほどでした。

そして一時期はドイツとの同盟をなしにする考えが生まれていき、ヨーロッパの情勢には介入しない方針を打ち立てていくようになります。しかし、近衛文麿の時代になると再びドイツとの同盟を望む声が広がっていくように。

さらには1940年6月にドイツは電撃戦によってフランスを降伏させると再び日本でドイツとの同盟を望んでいくように。「バスに乗り遅れるな!」というスローガンが日本ではやりだし、この後押しを受けた日本はドイツとの同盟を結ぶことにしました。

同盟のその後

日独伊三国同盟は1940年に成立しましたが、この日独伊三国同盟はここからとんでもない方向へと向かっていくことになります。

ドイツはソ連との不可侵条約を結んでいましたが、それはヒトラーからしたらフランスとの二正面作戦を防ぐために一時的に結んだものでもありました。しかし、これに対して日本はドイツはソ連と戦わないと踏んでいくようになり、なんと1941年に日独伊三国同盟にソ連を加える構想を提案。その前段階として1941年4月に日ソ中立条約を締結してソ連と日本は中立を結ぶことになりました。

日本は北の守りを固めながら南に向かう南進論を展開していくようになります。しかし、その約3ヶ月後にドイツは独ソ不可侵条約を破って独ソ戦を始めることになるのです。ソ連は日本の対決のために配置していた極東の兵を独ソ戦の対応に当てるために西に向かわせます。

ドイツからしたら日本によってソ連を挟み撃ちにしたかったと思いますが、これによって思惑が完全に外れてしまうことになりました。その結果ドイツ軍は極東にいたソ連兵とも戦わなければならなくなり、独ソ戦は次第にソ連の有利に変わっていくようになります。

アメリカの参戦と消滅

思惑が外れてしまったドイツですが、さらに日本はとんでも無いことをやらかしてしまいます。

何と1941年12月8日に日本による真珠湾への攻撃を開始。アメリカとの戦闘状態に突入しました。日本がアメリカに宣戦したことでこれまで中立を保っていたアメリカはドイツとの対決姿勢を見せていくようになります。そして日本が参戦した時にはドイツは必ず同盟国の救援を行うことを決めており、アメリカに宣戦布告。ドイツはわざわざ独ソ不可侵条約で何とか防いでいた2正面作戦を強いられることになるのでした。

もはやこの戦争は日本とドイツの足やひっぱり合いとなってしまい、同盟の本来の意義を失ってしまいます。さらに本気を出したアメリカとソ連に敵うはずもなく、1943年にイタリアがまず降伏。日本は1942年にミッドウェー海戦で日本が敗れ太平洋の制海権を失ったとで徐々に後退していき、ドイツもバグラチオン作戦によってソ連の占領地帯をほとんど失ってしまいます。

そして1945年4月にドイツは首都のベルリンが陥落して降伏。8月には日本が降伏したことで同盟を結んだ3国は全部降伏しました。こうして日独伊三国同盟は完全に消滅したのです。

三国同盟は歴史を動かした

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世界史には色々な三国同盟がありますが、今回解説していったこの二つの同盟は世界大戦に大きな影響を与えていき、そして日独伊三国同盟では日本も参加して日本の第二次世界大戦の参戦を後押しする形となってしまいました。

三国同盟はまさしく日本史や世界史に多大な影響を与えたのですね。

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