奈良時代日本の歴史

「風土記」とは?中でも古代神話の宝庫の「出雲風土記」を解説

古代の出雲大国の姿が見て取れる国引き神話

このように、出雲王国は日本列島の日本海側を中心に支配領域を持っていたと思われるのです。これは、後の大和朝廷の墳墓が前方後円墳であったのに対して、日本海側の弥生時代の墳墓が四隅突出墳(方墳)であったことと一致しています。その中心が現在の出雲地方であり、多くの考古学的発見も多いのです。

出雲の神々は記紀でもよく出てくる

出雲風土記にはたくさんの神様が登場していますが、そのなかでも一番登場回数の多いのはやはり大穴持命(オオアナムチノミコトあるいはオオナムチノミコト)です。このオオアナムチ命は、出雲風土記では「所造天下大神(アメノシタツクラシシオオカミ)」と呼ばれており、天下を平定して国を作った神様とされています。そして、オオアナムチ命は多くの妻がおり、10人ほどの姫の名前が記載されているのです。記紀には多くの名前があることで有名ですが、出雲風土記では少し違っています。国を広げる戦争の後には、その土地土地の姫を妃に向かい入れて血縁関係を広げていくことで支配を確立していったことがわかるのです。

もう一人、出雲風土記で忘れてはならないのがスサノオノ命がいます。神須佐乃烏命(カムスサノオノミコト)と記されていますが、出雲風土記ではオオアナムチとの血縁関係はうかがえません(記紀ではスサノオノミコトの子孫とされている)。また、国引き神話の八束水臣津野命はスサノオノ命の系譜とされています。

そのほかにも、記紀にも出てくる多くの神々が登場しており、高天原(朝鮮半島の倭族)との深い関係を知ることができるのです。

出雲風土記における遠慮と誇り

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出雲風土記の編纂が出雲国造に命じられた当時は、すでに出雲王国が滅んでから500年以上が経過しており、大和朝廷に対する遠慮が見られる時期でした。しかし、国譲りを載せているものの、その理由、また、なぜ出雲王国がなくなったのかなどは記載されていません。逆にオオナムチ命を所造天下大神と表現したりしているのです。やはり、かつての大王国としての一定の誇りも感じられるといえるでしょう。

それよりも、多くのエピソードが記載されており、作成時点から見てもはるか昔の言い伝えがよく残っていたものといえます。しかも、編纂当時でも文字を知っているのは限られた人間だけであった当時に、これだけの古い記録が残っていたのは驚きです。古事記の前文に稗田阿礼(ヒエダノアレ)の口述に基づいて太安万侶が記述したとされていますが、当時は言葉で言い伝えを伝承することが支配層でおこなわれていたのでしょう。ただ、出雲王国などでは、それとは別に大陸の漢字文化がすでに入っており、文書として残っていたのかもしれません。

なぜ出雲大国は滅ぼされ、出雲風土記だけが残ったのか

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国譲り伝説では、唐突に天照大神の子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)が葦原中国(アシハラノナカツクニ)を納めるべきとします。そして大国主命に国を譲るように迫る物語(神話)です。しかし、なぜ正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が天降らなければならないのかという理由は記されておらず、出雲風土記にも記載はありません。しかも、後の天孫降臨は出雲でなく、出雲大国の領域外である九州の高千穂の峰に降り立ったとされており、大きな謎になっているのです。高千穂の峰については、北九州の筑紫説と日向(宮崎県)説がありますが、どちらも出雲の文化圏とは言えません。

その理由を少し考えてみましょう。

天孫のニニギノミコトがなぜ降臨しなければならなかったのか

紀元前後のころの中国では前漢が新の王莽(オウモウ)によって滅ぼされ、多くの難民が朝鮮半島に押し寄せていました。朝鮮半島に住み着いていた倭族は大きな圧迫を受けており、生き残るためには日本列島に移住する必要があったのです。ただ、朝鮮半島にいた倭族が日本列島への進出を目指した経路は一つではなく、いくつもあったと考えられます。出雲は国引き神話があるように倭族との関わりがあり、進出をおこなう経路の一つとしたのではないでしょうか。大和に最初に入ったニギハヤヒ命にそれが表れています。古代豪族の物部氏が記したとされる「先代旧事本紀(センダイクジホンキ)」には天孫降臨したのはニギハヤヒとされているのです。

また、北九州にはすでに昔から同じ倭族の一派が住み着いており、それを避けて日向の地に神武天皇(イワレヒコ)の先祖であったニニギノミコトが移動したのでしょう。

いずれにしても、倭族は出雲王国を乗っ取るよりも最終的な移動の地として大和(今の奈良盆地)をターゲットとしていたように思われます。それを協力したのが出雲王国だったと想像されるのです。

ニギハヤヒとイワレヒコの正統争い

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そして、大和朝廷が成立した後には出雲王国の支配層も大和に移動し、ニギハヤヒとイワレヒコの倭族の正統争いに巻き込まれていったのでしょう。そして、次第に出雲王国自身は衰退していったと思われます。その背景には当時の気候の寒冷化があり、日本海側では稲作の不作が続いた可能性が高いのです。それもあって、10代にわたる正統争い(欠史八代時代)はイワレヒコ(神武天皇)の系統の勝利になった可能性が高いと思われ、記紀にもそのことが記されました。

そして、実際に出雲風土記が編纂された頃には出雲は大和朝廷の支配する国の一つに没落していたのでしょう。

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