4-2象山は門弟に密航させた?
象山の門弟吉田松陰は、日本の海域をウロウロする欧米列強に対抗できる強い国づくりをと願っていました。その目的を果たすため金子重輔と共に、安政元(1854)年3月27日に命を懸けて密航を企てました。船には乗り込めたもののペリーに拒絶され密航は失敗。連座した象山もこれに関わったとして、幕府に捕らえられます。象山は、投獄され塾も閉鎖されました。この時の象山の申し開きは、積極開国論と外国との交流を前提としたもので、見識と幕府の不明を正すという論陣を張っています。
しかし、象山の言い分は通らず、国の非常時であっても、国禁を犯したものを許すわけにはいかないと、松陰たちは死罪になりました。象山も国禁を犯させたとして伝馬町老屋敷につながれた後、江戸退去を通告され、25日に松代に一家そろって護送されました。門人たちは、目頭を押さえ密かに見送ったとか。
松代で文久2(1862)年まで蟄居を余儀なくされました。蟄居を命じられた時、流罪を強いられたナポレオンを思ってか、「日本のナポレオンになる」と誓ったといわれています。嫌われ者の象山として有名ですが、蟄居宅にも彼を慕う人々が訪れていたようです。
4-3象山の復活
文久2(1862)年12月29日に、9年に及ぶ蟄居が解かれました。この赦免は、長州藩や土佐藩など、「反幕有力大名」の圧力があって行われたものでした。元治元(1864)年3月7日に、驚くことに京都朝廷の伝奏飛鳥井中納言から、朝廷に出仕せよとの申し出があったのです。
実はこの話の前には、土佐の山内容堂から出仕の話があり象山は大喜びでした。松代藩の重臣から嫌われるも、他ではこんなに好かれているざま~みろといったところでしょう。松代藩も朝廷に「象山は、性格が災いし周囲とは協調できない。松代藩に在籍し仕えるより、朝廷に差し上げたい。」と申し上げたのです。
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4-4京に上る象山
松代藩の態度には、門人たちは激怒するも、象山は「考えを実行するには朝臣になった方がいいだろう。」となだめたとか。松代藩にほとほと嫌気がさしていたのでしょう。ナポレオン気取りで京へ上洛し、公武合体と開国進取を説きます。
しかし、二条城で受けた辞令は「海陸御備向手付御雇」でした。「御雇」とは何事かとカッとしますが、理性で抑えます。幕府の形だけの決まりはどうでもいい。存分に自分の意見を述べ行動しようと決めた瞬間でした。
そんな時、公武合体が天下となり、長州藩が入京を禁止されたのです。長州の報復が始まると感じた象山は、天皇を守るため御所から彦根城に移す策を講じます。しかし、これが象山の命取りになるのです。
4-5京での暮らしぶり
三階宮に4月10日に謁見を許された際には、西洋の地理や兵法について身に付けた全てを惜しげもなく話したとか。西洋式の乗馬が見たいとの要求にも快く応じ、連れてきた愛馬に颯爽とまたがり、宮家の庭で堂々と乗馬を見せたようです。大いに満足された宮に、度々来るようにといわれています。更に弟の中川宮に謁見し、意気投合した象山は度々訪れたようです。
4月20日には一橋慶喜に招かれ、時勢についての質問を浴びるも、いつもの口調で自分の意見を述べ立てます。5月1日には初めて将軍に謁見しました。更に薩摩藩の島津久光からは、藩に呼びたいとまで気に入られ、西郷隆盛を使いに出すも象山は断っています。
5月26日には洛中木屋町三条上ルの二階建ての住まいに移転しました。煙雨楼と名づけた家の部屋数は15~16もあり、愛馬王庭の厩も備えた、鴨川の景色が美しく大変気に入ったようです。
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4-6象山暗殺される
京では色々な人との出会いがあり、尊敬され出仕を求められたりと、意気揚々とした幸せな時を送ります。しかし、和鞍でなく革製の洋鞍の馬にまたがっていた象山を見て、長州藩など尊王攘夷派からは憎しみを買っており、「西洋かぶれ」と目を付けられ暗殺の対象となったのです。「先生の暗殺計画がある。尊攘派潜伏拠点の京から去るように。」と、忠告するものもおり、長州藩士の桂小五郎もその一人です。
7月11日に「開港勅論案」の草案を持ち山階宮に天皇への仲介を頼もうと、愛馬に乗って邸宅を訪れるも不在でした。17時ごろに三条木屋町の髪詰所前を通りかかった時、攘夷派三波に及んで襲撃されます。いきなり象山の後ろから斬りかかり、全身に13ヶ所も傷を負い落馬し即死しました。享年54歳でした。
犯行は、肥後勤王党の河上彦斎らによるものです。象山が新選組をけしかけ池田屋を襲ったとの噂があったことも事実で、在洛中の尊攘過激派たちの間では「佐久間を斬るべし」との合意があったといわれています。象山は7月13日に京都花園の妙心寺大法院に葬られました。何の因果か、象山の子啓之助は、象山の死後に新選組に入隊しています。
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幕末志士たちに大きな影響を与えた象山に会うことは時代の先端に触れること!
象山は多大な功績を残すも評価が低い理由は、過剰な性格から敵が多かったからといわれています。でも、象山という天才思想家がいなければ、日本の近代化は更に遅れていたでしょう。だって彼が育てた門人たちの活躍を見れば自ずと分かりますよね。