幕末日本の歴史江戸時代

幕末志士を育てた開国論者「佐久間象山」とは?海防八策を唱えた天才思想家の人生を解説

3-3江川より西洋砲術と兵学を学ぶ

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幸貫の海防掛の顧問となった象山は、海外情勢の研究を必要とします。近代兵器についても学ぶ必要性を感じ、天保13(1842)年9月7日に伊豆韮山へ行き、砲術の第一人者江川太郎左衛門の江川塾に入門しました。世界遺産の韮山反射炉は、江川が準備を始め亡くなった2年後に完成しています。

門下となるも象山は、江川に嫌われました。しかし、近代洋式砲術を学ばなくては顧問の任務を果たせません。高島流砲術の門下生下曽根信敦から、書物を借り猛勉強し独学で習得します。

3-4「海防八策」を提案す

「海防八策」と呼ばれる海防意見書を立案し、高い評価を得ます。「海防八策」が実現しなかったのは、水野忠邦が老中を免ぜられ、弘化元(1844)年に幸貫が海防担当職から退く結果となったからです。象山が藩から「郡中横目付」という大官職を命じられたのもひとつの要因でしょう。

この献策に日本が追い付いていませんでした。11年後に大砲を摘んだ戦艦が日本に登場する前に、象山の策を取り上げていれば、日本は違う道を歩んでいたかも。ペリー来航で持ち込まれた大統領国書の意見を求められた、勝海舟が書いた意見書と象山の海防八策の多くが一致しているのです。嘉永5(1852)年12月42歳の時、象山は16歳の勝海舟の妹順子と結婚しています。

3-5再び西洋学を志す

西洋文化の重要性を感じ、34歳の時に蘭学の師美濃国の坪井信道の提案で、シーボルトの弟子で信道の門人の金沢藩士黒川良安と、蘭学と朱子学の交換教授を行います。猛勉強の末オランダ語は僅か2ヶ月で基礎を取得し、辞書を使い読みこなせるほどになりました。

その後、幅広い西洋知識を身に付け、大砲の鋳造に成功し、西洋砲術化としても名を広めています。ガラスの製造や電池の製造、電気治療機や地震予知機の開発にも成功しました。また、国内初電信実験では「サクマシュリ」と打ったことも有名です。

嘉永3(1850)年には深川藩邸で砲学の教授も始め、自分が学んだ西洋学の知識を惜しみなく教えています。門弟には、先ほどの小林虎三郎や吉田松陰を始め、勝海舟、河井継之助、橋本左内、山本覚馬、坂本龍馬など、幕末動乱期に影響を与え日本を背負う錚々たるメンバーがいました。

4.失脚の要因ペリー来航と暗殺

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嘉永6(1853)年6月3日浦賀にペリー率いる米国の黒船4隻が来航します。6日には実際に黒船を見ており、9日には藩の軍議役を命じられました。攘夷論から転じ開国論を唱えるようになり、横浜開港を主張しています。

4-1ペリーもビックリ象山の容姿

実は、ペリーがお辞儀をした唯一の日本人が象山です。象山は、178~180cmも身長があり、恰幅もよかったとか。しかも色白で顔も堀が深く、外国人の血が混じっているのではと疑われるほどでした。来ている服は黒で襟から白い絹が出るもの。しかも、孤高狷介・傲岸不遜の性格からか、威圧感があったのです。
象山が発するオーラにビックリし、衝動的にお辞儀をしてしまったとか。幕府の上役たちに会っても、会釈さえしなかったのに…。9日に軍議役に任命され、軍備を整えます。開国論を唱え横浜開港を主張しました。

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