幕末日本の歴史江戸時代

幕末志士を育てた開国論者「佐久間象山」とは?海防八策を唱えた天才思想家の人生を解説

2-2江戸遊学で朱子学を学ぶ

幸貫は藩政改革の一環として、学問修行に力を入れます。白羽の矢が立ったのが象山です。幸貫から「遊学して学問に専念せよ。」との命を受けます。しかし、重臣たちは猛反対。江戸での学費や生活費など全て藩で面倒を見るとの待遇だったからです。幸貫の期待の大きさが分かりますね。

天保4(1833)年11月に幕府直轄の昌平黌に入り、筆頭教授の佐藤一斉に詩文と朱子学を学びます。一斉は、象山の江戸遊学を推挙したかつての恩師鎌原桐山にも朱子学を教授した人物です。昌平黌時代の象山は学問的潔癖症で、正学の「朱子学」以外を認めない異学禁止論者となりつつありました。一斉が知識と行動は一致すべきとする「陽明学」を組込むことに我慢ができず反発するのです。この態度に一斉は桐山に手紙で、「象山は優秀だ。」と前置きをし、「自分は学問の原理原則は教えるが、それをどう応用するかは、学んだものの自由だ。」と知らせます。一斉が手紙に秀才と書いている通り、象山は山田方谷と共に「佐藤門下の二傑」と称されました。

ちょっと雑学

藩主幸貫が象山の遊学を重臣たちに認めさせるため、話した理由は「孤高狷介で傲岸不遜な性格は、象山の精神の清さと気高さから来ており、彼がそれを貫く努力をしているからだ。彼の気高い精神は、今の松代藩にとって最も必要なものだ。」と語ったのです。

2-3松代藩へ戻る

天保6(1835)年の暮れに、松代藩から早々に帰藩せよとの命令が下されます。この頃の象山は、熱烈な朱子学者になっていました。藩では、「御城附月並講釈助(おしろつきつきなみこうしゃくたすけ)」という新しい役が用意されていたのです。

この裏には、“金食い虫の象山を帰国させ、修業の成果を藩に反映させよ。”との意図があったのです。藩庁の言い分は、投資効果を示せということでしょう。天保7(1836)年2月に帰藩します。翌年2月19日に陽明学者大塩平八郎が、「神君家康公の昔に帰れ」と乱を起こしました。象山は、「大塩平八郎ほどの知恵者が、異学を学んだために反逆を起こした。」と断じます。この時の象山は、あくまで朱子学を本道と考える、完全な異学禁止論者となっていたのです。

2-4教育の大切さを訴え再び江戸へ

大塩平八郎の乱が証明したように、「まっとうな武士道を学ぶためには、教育が根本だ。」との学政意見書を、藩家老矢沢監物に提出します。文末には、「政治の中心となる教育や道徳を教えるだけの、学力はまだない。後5~7年の修業が必要だ。」と付け加えています。

要するに象山は、藩のお金で遊学を続けさせてほしいと訴えたのです。この論文を矢沢は藩主幸貫に見せると、「小さな功績でも揚げれば…。」と矢沢にいいます。矢沢は象山を呼び出し、新潟との利益をもたらす交易の交渉を命じました。学政意見書は、幸貫に文武学校の設立を決意させます。

翌年4月に越後に向かいました。新潟港に着くと奉行の小林誠斎と、交易交渉を始めますが簡単には行きません。機会があれば小林の息子虎三郎を、象山の門弟にと約束し取引が成立します。この小林虎三郎は、長州の吉田寅次郎(松陰)と共に「佐久間門下の二虎」といわれる人物です。

3.老中となった藩主幸貫を支える

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新潟の交易交渉に成功した象山は、再び江戸遊学へ旅立ちます。儒学を教える私塾を開き、多くの幕末志士たちを育てました。その後、藩主幸貫が幕府の老中となり、その顧問として藩に尽くします。

3-1私塾を開く

今回の遊学では、人に教えを乞うのではなく、自分で教えたいとの気持ちも強く私塾を開きます。一斉の門下梁川星巌の世話で彼の私塾「玉池吟舎」の隣に、「象山書院(五柳精舎とも)」を開きました。

天保11(1840)年に望岳賦を開きます。この頃の象山は、松崎慊堂、藤田東湖、渡辺崋山と交流をもち、江戸の名士の一人に数えられていたのです。翌年9月に松代藩江戸藩邸学問所頭取となり藩に奉公します。

3-2幸貫幕府の老中へ

アヘン戦争に危機感を覚えた幕府は、天保12(1841)年6月藩主幸貫を老中へ任命します。大老水野忠邦より下総(茨城県)古河城主土井利位と相役で、現在の外務省のトップとなる「海防掛」を担ったのです。幸貫の父は、寛政の改革で有名な松平定信。真田家は外様大名で幕政での出世は望めません。でも、幸貫は「青雲の要路に参賀したい」との野心があり名を揚げるチャンスでした。

藩財政が赤字状態で幕府の老中になれば金がかかると、重臣たちから猛反対を受けることは必至。幸貫は、急遽象山を呼びます。養子の藩主幸貫は、家臣からの批判が多く、傲岸不遜で協調性がなく四面楚歌となっていた象山をブレーンとして選んだのです。でも、象山のよき理解者だった、矢沢監物が江戸で脳出血により急死します。多難を覚悟していた幸貫も、象山の登用を躊躇しました。しかし、国体を重んじつつ海外へも動向を注視できるものが、藩内で象山以外にいなかったのです。禄高も100石に増加されました。

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