堺を存亡の危機から救う
信長が擁立した足利義昭が将軍となった時、信長は堺・大津・草津に代官を置く許しを得ていますね。いずれも貿易や水運の重要拠点であり、畿内の経済を支配するためには切り離せない場所でした。信長は早くから堺の重要性に気付いていたのです。「堺を抑えることで、どの戦国大名に対しても優位に立てる。」信長らしい先見性でした。
そして、あたかも堺の会合衆らを試すかのような難題を吹っ掛けます。
「堺の会合衆たちに矢銭2万貫を申しつける。」
2万貫といえば現在の価値に直せば30億円もの大金です。矢銭(軍事費)など献上したところで、商人たちにとって得になることなど一つもありません。会合衆らも口々に反対を唱えます。
「2万貫なんて無茶苦茶や!これならまだ三好さまの頃が良かった。今からでも遅くはあらへん。三好の残党と組んで堀を深くし、町に籠って戦うべきや!」
そんな会合衆らをなだめるため、宗久は津田宗及と二人して彼らの説得にかかりました。
「今、織田さまに逆らったところで勝てる見込みなんて無いんやで!この堺を滅ぼしてもええのんか?織田さまの支配は受けるが自治はそのままで良いとの仰せや。ここは我慢して織田さまに従った方が得策なんちゃうか?」
現実的な宗久らの説得に他の会合衆らも納得し、無事に矢銭が納められることになりました。宗久らの奔走によって堺の町は戦火から救われたのです。
翌年、ついに織田方と石山本願寺が開戦。蜜月だった石山本願寺と堺の関係も終わりを迎えました。若年の頃、門徒だった宗久も複雑な心境だったのではないでしょうか。
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信長の天下統一事業を支える
信長の信頼を得た宗久は、堺近郊の摂津五ヶ庄の代官として任命され、座(商人たちの組合)の権利や、淀川を運行する船舶の関税免除などの特権を得ることになりました。また但馬の生野銀山の開発も任されるなど、巨大財閥として成功していくことになりました。
それだけではありません。信長の要請に応じて鉄砲の一括生産を請け負い、もはや戦場の主役となった鉄砲を迅速に調達することによって巨万の富を築き上げたのです。まさに経済・軍事両面において信長の天下統一事業を側面から支えていたといえるでしょう。
いっぽうで宗久は、千利休や津田宗及らと並んで信長の茶頭としても活躍しています。記録によれば1573年に京都妙覚寺で茶会が催され、堺代官だった松井友閑をはじめとして千利休、山上宗二といった当代一流の茶人たちも加わっていますね。
さらに翌年には相国寺で茶会が開かれています。この茶会では聖武帝の遺品だった香木「蘭奢待」が切り取られて披露され、宗久自身も賜っているのです。過去を遡れば足利義満ら権力者が切り取った程度で、一介の商人が賜ることなど前代未聞のことだったでしょう。
しかし、それほどまでに宗久は信長から信頼され、頼りにされていたという証ではないでしょうか。
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今井宗久、その後半生とは?
織田信長の在世中、名実ともに日本随一の豪商へとのし上がった今井宗久。やがて秀吉の時代を迎えると、茶の湯の世界はかつて同輩だった千利休が牽引していきます。宗久の後半生と、今井家のその後を見ていきましょう。
秀吉政権と宗久
1582年、織田信長が本能寺の変で斃れると、羽柴改め豊臣秀吉が天下の実権を握るに至りました。宗久は引き続いて秀吉の茶頭として収まり、御伽衆にも列しますが、彼の黄金時代はここまでだったのです。
1587年に催された北野大茶湯では茶頭として参加するも、序列は千利休、津田宗及に次ぐ地位に過ぎませんでした。また商人としての活躍も、秀吉政権内では思うように振るわなくなりました。なぜなら同じ堺の商人だった小西家が秀吉に接近し、大いにその知己を得ていたからです。
秀吉子飼いの大名だった小西行長の兄如清は、秀吉が毛利氏と対陣している最中に、宇喜多氏を味方に引き入れることに成功しており、父の隆佐もまた秀吉に仕えて、豊臣家蔵入地の代官に任命されていました。いわば秀吉は自身のために働いてくれた者の地位を引き上げることで恩に報いようとしたのです。
そうした不遇の中、1593年、宗久はまるで自分の役目を終えたかのように74歳で亡くなりました。同輩の千利休が切腹してから2年後のことでした。天下統一のために尽力した宗久でしたが、天下統一が成ると消えゆく運命にあったというのは、何やら皮肉めいたものを感じますね。
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その後の今井家
宗久の死後、今井家の跡を継いだのは嫡男の宗薫でした。彼は若い頃から秀吉に近侍し、茶の湯を父に学んで極めたといいます。秀吉の死後、今度は徳川家康に接近して厚遇を得ることになりました。
関ヶ原合戦の際は、茶人でありながら東軍に身を投じ、論功行賞で300石の領地を与えられます。しかし大坂の陣の折には「宗薫は家康に通じているに違いない。」と嫌疑を受け、堺の屋敷を襲われた挙句、大坂城へ拉致軟禁されてしまいました。この時に宗久以来の家財や茶器が没収されたといいますね。
その後宗薫の子兼隆は、将軍秀忠や家光に仕えて幕府直轄領の代官となって堺に住し、今井家はちょうどこの頃に商人から旗本身分へと転身を遂げています。
兼隆は32歳の若さで亡くなりますが、16歳で跡を継いだ兼續は造営奉行として、一条関白家の館や、摂津住吉宮の造営を任されるなど建築の専門家としても活躍しました。
その後も今井家は、堺における幕府役人として存続し、明治時代を迎えることになります。当主の彦次郎は、堺事件など騒擾が治まらない市内の取り締まりを仰せつかり、やがて1869年に明治政府の上地令に伴って、東京南品川に移住したのです。宗久の代から300年以上を経て父祖代々の土地を離れることになりました。
堺市堺区に今井屋敷跡が残されていますが、現在あるのは石碑と案内板のみ。都市化の波に押されて跡形もありません。
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安土桃山時代の華麗なる一族だった今井家
室町時代の終わりに台頭し、安土桃山時代を迎えるとともに繁栄の絶頂を極めた今井家。その理由は明らかに宗久の才覚によるものでした。茶の湯で信長の心を掴み、経済力で織田政権を支えた手腕は、千利休ですら遠く及ばなかったことでしょう。まさに後世に権勢を振るうことになる豪商たちの先駆けだったのではないでしょうか。