ドレフュス事件の経緯
Own Work – Le Petit Journal, パブリック・ドメイン, リンクによる
ヨーロッパ全体で反ユダヤ主義の風潮が高まっていたころ、フランスでも反ユダヤ主義の動きが見られました。それが、ドレフュス事件です。フランス軍のドレフュス大尉はスパイの疑いをかけられ、階級を剥奪されました。文豪エミール・ゾラはドレフュスを擁護。フランスでは国論を二分するほどの激論が巻き起こります。結局、ドレフュス大尉と別の真犯人の存在が浮かび上がり、ドレフュスは無罪とされました。
ドレフュスのプロフィール
アルフレド(アルフレッド)・ドレフュスは1859年にアルザス地方のミュルーズで生まれました。ドレフュスの一家はユダヤ人で、織物業を家業とします。ドレフュスは7番目の男子として生まれました。1871年、父のラファエルがフランス国籍を取得しフランス人となります。
同じ年に陸軍学校に入学。フランス軍人としての道を歩み始めました。1870年の普仏戦争での敗北の結果、ドレフュスの故郷であるアルザス地方はドイツに併合されます。これは、ドレフュスにとって大きな衝撃だったでしょう。
1880年から1882年にかけて、ドレフュスは砲術士官としての教育を受けます。その後、ドレフュスは任官し、第32胸甲騎兵連隊に配属されました。1890年代には、参謀本部付きの砲兵士官としてパリで勤務するようになります。
ドレフュス大尉の逮捕
1894年、フランス陸軍の情報部は、パリ駐在のドイツ武官の邸宅から1枚のメモを手に入れます。そのメモには、フランス軍の機密情報が書かれていました。驚いたフランス陸軍は調査を開始。メモと筆跡が似ていたドレフュス大尉がドイツに機密を漏らしていたと考え逮捕します。
ドレフュスが疑われた理由は筆跡が似ていたからだけではありません。彼がユダヤ人だったからです。参謀本部はドレフュス大尉を逮捕し、取り調べを始めます。ドレフュスがスパイ容疑で逮捕されたことをかぎつけた反ユダヤ系新聞は、ユダヤ人の売国奴が逮捕されたとしてドレフュス逮捕を報じました。
新聞で騒ぎになったことを知った軍の上層部はドレフュス大尉を軍法会議にかけ、有罪を宣告。ドレフュスの軍籍をはく奪し、南米のギアナに追放しました。
ドレフュスの再審請求とエミール・ゾラによるドレフュス弁護
逮捕されたドレフュスは一貫して無実を主張します。ドレフュスの誠実な人柄を知る妻や兄はドレフュスの無罪を確信。裁判のやり直しを軍に求め続けました。
事態が動いたのは1896年。新たに情報部長に就任したピカール中佐が、真犯人はハンガリー系のエステルアジ少佐であることを突き止めます。しかし、軍の上層部はドレフュスの再審をせず、かえてピカール中佐を左遷してしまいました。
1898年1月13日、小説家のエミール・ゾラは、新聞の一面で「私は弾劾する」という記事を掲載。軍の腐敗や虚偽を厳しく弾劾します。これに対し、反ドレフュスの立場をとる人々はゾラを告発。ゾラはイギリスに亡命せざるを得なくなりました。
ゾラによる弁護はドレフュス擁護派を勢いづけます。その結果、フランスでは反ユダヤ主義・軍国主義を掲げる人々(フランス祖国同盟)と、ドレフュス支持のフランス人権連盟に分かれて激しい論争が展開されました。
長きにわたった裁判と無罪判決
強まる再審請求を受け、フランス軍は再度、筆跡鑑定を実施。その結果、機密文書を書いたのはドレフュスではなく、エステルアジ少佐のものだったことが判明しました。これを受け、1899年、ドレフュスはギアナでの監禁を解かれ、パリに戻ります。
真犯人はドレフュスではないという世論の高まりに推され、軍部はドレフュスの再審を行いました。しかし、事件当時の参謀本部の責任者だったメルシエ将軍は上層部の謀議はないと証言します。また、ドレフュスの弁護士が銃撃されるなど、根強い反ユダヤ感情に基づく事件も起きました。
再審の判決は再び有罪。ドレフュスは改めて禁固10年を命じられます。政府は、ドレフュスに再審請求を取り下げ、有罪であることを認めれば釈放すると持ちかけました。やむなく、ドレフュスは再審請求を取り下げ、大統領特赦をうけ釈放されます。結局、ドレフュスの無罪が証明されたのは1906年になってでした。
ドレフュス事件の影響
フランスの国論を二分したドレフュス事件。事件後、大きな影響が二つありました。一つ目はフランスで本格的に政教分離が導入されるきっかけとなったこと。二つ目は、ユダヤ人による独自国家樹立運動であるシオニズム運動が盛んになったことでした。ドレフュス事件のもたらした影響をみてみましょう。