フランスの政教分離
ドレフュス事件後、フランスではカトリック教会の影響力から国を分離するべきだとする考え方が強まります。ドレフュス大尉の冤罪の背景には、反ユダヤ主義的な主張を行うカトリック教会の存在があると考えられたからでした。
フランス革命のころ、革命政府はカトリック教会と国を分離します。ところが、ナポレオンはローマ教会との関係改善を重視したため、国と教会の距離は近いままとなっていました。
ブルジョワジー中心の急進社会党の党首クレマンソーは、社会主義政党のフランス社会党と共同で1905年に政教分離法を制定します。信仰の自由は認められますが、公教育での宗教教育の禁止や、宗教予算の廃止などが決められました。以後、フランスでは政教分離の原則(ライシテ)が定着します。
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シオニズム運動の開始
一方、ドレフュス事件を「明日は我が身」と考えた人もいました。ハンガリー出身のジャーナリストとしてパリに滞在していたヘルツルです。反ユダヤ主義を目の当たりにしたヘルツルは、ユダヤ人が安心して暮らすためには、ヨーロッパの外に自分たちの国を作るしかないと確信しました。
1896年、ヘルツルは『ユダヤ人国家』を著します。そこには、ユダヤ人によるユダヤ人国家建設するというシオニズム(シオンの丘のあるパレスチナに自分たちの国を作る)の考えが生まれました。
1897年、スイスのバーゼルでシオニズムを奉じるシオニストが会議を開き、ヘルツルを初代議長とする世界シオニスト機構が作られます。ヘルツル自身は過労から44歳の若さで亡くなりましたが、彼の名はイェルサレムを見下ろす丘の名となり、イスラエル建国の父とたたえられました。
今も残る人種差別の動き
かつて、ユダヤ人たちはヨーロッパ各地で迫害され、多くのユダヤ人が命を奪われました。その一方、アメリカでは黒人差別の事件がいまだに数多く発生。それに対抗するデモや暴力が起きることでアメリカ社会に深刻な対立を引き起こしています。ドレフュス事件は政教分離を生み出す一方、ユダヤ人国家イスラエルを生み出す原点ともなりました。人々が生まれや肌の色の違い、言葉の違いから差別しあう歴史は、まだまだ終わっていないのではないでしょうか。