都市国家時代から巨大帝国まで:時代を作ったローマ皇帝たち
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ローマ帝国とは、もともとはイタリア半島に誕生した都市国家のひとつから発展した国です。都市国家時代(紀元前6世紀頃)から含めると10世紀以上も続いたことになりますが、もちろんその間、国内外の争いが続き、君主の入れ替わりも激しい。記録が残る皇帝は90人を超えます。主要なローマ皇帝の業績を見ていけば、巨大なローマ帝国の歴史も見えてくるはず。歴史的には「ローマ皇帝」明確なという役職があったわけではないそうですが、ここでは、ローマ帝国のトップに立った人物を皇帝と考えて名前を挙げていきます。
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帝政ローマ初代皇帝:アウグストゥス
紀元前27年、ローマはそれまで続いた共和制体制から帝政ローマへと移行していきます。
その初代皇帝となったのがアウグストゥスです。
もともとの名前は「オクタヴィアヌス」。養父であるユリウス・カエサル暗殺後、その意思を継いでエジプトとの争いに勝利し、地中海統一を成し遂げました。
その功績が認められ、「尊厳者」という意味を持つアウグストゥスという名前が送られます。
アウグストゥスはあくまでも共和制下での一市民という立場をとっていました。しかし実質、ひとりの人間が大きな権力を握った形となったため、アウグストゥスが初代皇帝ということになります。ここから、強大な勢力を持つローマ帝国が始まるのです。
アウグストゥスから後の200年ほどの間は、パックス・ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれています。
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内政の安定に努めた賢帝:ハドリアヌス
第14代ローマ皇帝ハドリアヌスは、パックス・ロマーナ時代の一時期、五賢帝時代と呼ばれる時代の皇帝です。
即位したのは117年。それから20年ほどの間、ローマ帝国の内外の政治安定に努めました。
前皇帝のトラヤヌス帝は勢力拡大派で、この当時のローマ帝国の領土は地中海沿岸だけでなく内陸部にまで及んでおり、過去最大に。メソポタミアやアッシリア、アルメニアなど遠く東方地域をも掌握していました。
戦争を繰り返し領土が広くなれば、その分、攻め込まれる可能性も高くなります。
ハドリアヌスはそれまでの拡大路線から一転、防衛路線に切り替えて、城壁の整備など注力。メソポタミア地方から退き、目の届く範囲をしっかりと統治する堅実なやり方で巨大帝国を支えます。また、帝国内の政治体制の確立と結束の強化にも力を注ぎました。
それまでのイケイケ路線から堅実路線へ。元老院や周囲の役人たちの中には、ハドリアヌスのやり方に不満を持つものもいたようです。
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学問や文化の発展に貢献:アントニヌス・ピウス
ハドリアヌスの死後、ローマ皇帝となったのがアントニヌス・ピウスです。
もともとハドリアヌスのもとで執政官などの役職を歴任していた人物。その意思を継ぎ、ハドリアヌスが手掛けた様々な事業を継承します。
「ピウス(ピヌス)」とは「慈悲深い者」という意味を持つ言葉で、後に与えられた称号。アントニヌスは即位後、ハドリアヌスを神として祀るために尽力します。ハドリアヌスは政治への考え方の不一致から元老院と対立関係にありましたが、アントニヌスは元老院を説得。その行動に感銘をうけた元老院が、彼に「ピウス」という称号を与えたのです。
アントニヌスは外国との戦争や大規模な遠征は行わず、主に国内の政治や財政改革に努めました。
劇場や神殿の建設にも注力し、学問や文化・芸術の発展を重要視。貧民救済のための事業にも取り組み、その政治手腕は後世でも高く評価されています。
暴政を制圧して皇帝に:セプティミウス・セウェルス
時代は少し進んで、五賢帝時代と呼ばれる安定した時代が終わり、パックス・ロマーナも終焉を迎えようとしていました。
五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが亡くなり、その後に皇帝となったコンモドゥスは悪名高き暴君。悪政を繰り返したため各地で反乱がおき、ローマ国内は一気に荒れてしまったのです。
コンモドゥスは暗殺され、殺害したり買収したりして皇帝の座に就くということが何度か繰り返され、ローマ帝国は大混乱。その状況を鎮圧したのが、アフリカ大陸側出身の軍人であったセプティミウス・セウェルスでした。
セプティミウス・セウェルスは、同じく混乱を制圧しようと動いていた勢力を武力で押さえます。また、東方への侵攻も開始。軍事力を見せつけ、確固たる地位を確立します。
見事内乱を制圧したセプティミウス・セウェルスは193年、ローマ皇帝となるのです。
史上最悪との呼び声高き暴君:カラカラ
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カラカラはローマ帝国の混乱を制圧したセプティミウス・セウェルスの息子です。
本名はルキウス・セプティミウス・バッシアヌスですが、歴史の史料では「カラカラ」というあだ名で呼ばれることが多い皇帝。カラカラとはフード付きのガウンのような服の名称で、彼が子供のころから好んで着ていたため、このようなニックネームが付いたのだそうです。
カラカラはセプティミウス・セウェルスの即位後、父、そして弟ゲタと三人による共同皇帝となってローマ帝国統治にあたっていました。
しかし、親子ならともかく、兄弟で「どっちも皇帝」というのも難しいもの。カラカラとゲタも、共同で統治というより、別々の統治をしていて、しばしば主導権争いを起こしていました。
弟ゲタのほうが元老院のウケがよかったようで、カラカラの敵対心は日に日に募っていったとも伝わっています。そして211年、ついに弟ゲタを暗殺。皇帝の座の独り占めに成功するのです。
単一皇帝となったカラカラは権力誇示のため、様々な政策を打ち立てます。銀貨に他の金属を混ぜて製造コストを下げたり、税収アップ目的で帝国内の住民すべてにローマ市民権を与えるなど、かなり大胆な政策も。全体的にセコイ感じの財政改革が続きます。
周囲に助言する側近がいなかったのか、劇場や浴場などをバンバン建ててはお金が足りなくなると貴族たちから財産を没収したり、急に税額を引き上げたり、そのやり方は乱暴そのもの。カラカラの名前は暴君として後世に語り継がれます。
親子皇帝:マクリヌスとディアドゥメニアヌス
暴帝カラカラには嫡子がありませんでした。暴政を続けたまま、護衛を務めていた重臣たちに暗殺されてしまいます。
次に皇帝となったのが、カラカラの時代に近衛隊の長官を務めていたマクリヌスです。
マクリヌスは軍人出身であり、高度な教育を受け非常に優れた法律家でもありました。カラカラの暴政を間近で見ていたひとりでもあり、暗殺にも関与していたともいわれています。
彼は皇帝に即位すると、息子ディアドゥメニアヌスとともに共同皇帝に。特に内政の強化に力を注ぎます。
まず、カラカラが目先の小金稼ぎに行ったケチケチ通貨作戦を廃止。銀貨の素材を見直し、通貨の信頼性の回復に成功します。
暴政の後ですので、何をやっても善政と評価されたのかもしれません。とにかくマクリヌスとディアドゥメニアヌス親子は、地道に改革を進めていきます。しかしこうした政策を消極的ではないかとして不満を抱く者も少なからずいたようです。
こうした不満をいち早くかぎつけたのが、あのカラカラの一族でした。カラカラの伯母にあたるユリア・マエサを中心に、カラカラの隠し子であるというヘリオガバルスなる人物を担ぎ上げ反乱を起こします。
結局、この反乱が発端となり、マクリヌスとディアドゥメニアヌスは命を落としてしまうのです。