ドイツナチスドイツ

ヒトラーに妥協しすぎて失敗した「宥和政策」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

ネヴィル・チェンバレン内閣による宥和政策の実行

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ネヴィル・チェンバレン内閣はヒトラーがラインラントに兵を進めようが、オーストリアを併合しようが、ヒトラー政権に強い対応を取りませんでした。スペイン内戦にも干渉せず、ヒトラーの動きを黙認します。それに勢いを得たヒトラーはチェコスロヴァキアにズデーテン地方を割譲するよう迫りました。イギリス・フランス・イタリア・ドイツの首脳はドイツのミュンヘンに集まり、この問題を協議。ミュンヘン会談ではヒトラーの要求が認められました。

スペイン内戦への不干渉

ヒトラーが再軍備を進めていたころ、スペインでは、総選挙で社会主義者や共和派が勝利。反ファシズムを掲げる人民戦線の内閣が成立しました。選挙結果に否定的な軍はクーデタを起こします。クーデタのリーダーとなったのはカナリア諸島に駐留していたフランコ将軍でした。

フランコ将軍の挙兵を知ったスペイン各地の軍も反乱に呼応します。これに対し、人民戦線内閣は労働者たちに武器を与え、各地で民兵組織が結成されるのを容認しました。

人民戦線内閣の予想外の抵抗に、フランコ将軍は思想的に近いドイツ・イタリアのファシズム政権に援助を依頼。ドイツ・イタリア軍が反共を口実にスペイン内戦に干渉します。

これに対し、ネヴィル・チェンバレン内閣は内戦不干渉を決定しました。理由は、人民戦線内閣の支援がソ連を利すると考えたからです。人民戦線内閣はソ連の支援を受けましたが、反乱軍に敗北。1939年にフランコ将軍の勝利で内戦終結となりました。

ヒトラーのズデーテン地方の割譲要求

1938年、ドイツは同じドイツ人国家であるオーストリア併合を画策。オーストリア国境に軍を終結させ、オーストリア政府に圧力をかけました。最終的にオーストリア政府は併合に同意。ヒトラーのオーストリア併合は成功します。

次にヒトラーが狙いを定めたのは隣国チェコスロヴァキアにあるズデーテン地方でした。ズデーテン地方とは、チェコスロヴァキアのドイツ・オーストリア国境周辺地域のことです。

チェコはボヘミアとも呼ばれ、ドイツ人を中心とする神聖ローマ帝国の一員だったため、ズデーテン地方にはドイツ系住民が数多く居住していました。

ヒトラーはズデーテン地方のドイツ人がドイツと統合したがっていると主張。チェコスロヴァキアに対して、ズデーテン地方の割譲を要求しました。ヒトラーは国内向けの演説で、これが最後の領土要求だと表明します。

宥和政策の頂点となったミュンヘン会談

ヒトラーのズデーテン地方割譲要求に対し、ネヴィル・チェンバレンはヒトラーに対話を求めました。1938年9月15日、チェンバレンはドイツのベルヒテスガーデンでヒトラーと会談します。しかし、ヒトラーはズデーテン地方割譲要求を取り下げません。

1938年9月26日、ゴーデスベルクで二度目の英独首脳会談が行われました。しかし、交渉は決裂。9月29日にミュンヘンでイギリス首相ネヴィル・チェンバレン、フランス外相ダラディエ、ドイツの総統ヒトラー、イタリア首相のムッソリーニ会談することになりました。いわゆるミュンヘン会談です。

ミュンヘン会談では、ドイツのズデーテン地方割譲要求が認められました。その引き換えに、ドイツは重要な外交政策について事前にイギリスと協議すると定められます。チェンバレンは、ズデーテン地方と引き換えにヨーロッパの平和を守ったとしてミュンヘン会談直後は高く評価されました。

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