ドイツナチスドイツ

ヒトラーに妥協しすぎて失敗した「宥和政策」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

宥和政策の破綻

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ヒトラーの要求をほぼ丸呑みすることで、当面の平和は維持されました。しかし、ヒトラーにはイギリスとの約束を順守する意思はありません。ミュンヘン会談の翌年、ヒトラーはチェコスロヴァキアを解体。ポーランドに対し新たな領土割譲要求を行いました。チェンバレン内閣はヒトラーがポーランドに侵攻すると宣戦布告。第二次世界大戦がはじまります。その後、チェンバレンは首相を辞任し、チャーチルが戦争を指導しました。

ミュンヘン会議後続いたヒトラーの領土要求

ミュンヘン会談の結果を受け、ヒトラーはチェコスロヴァキアにズデーテン地方を割譲させます。チェコスロヴァキアは会談に参加することすら許されず、領土の一部を奪われました。

さらに、翌1939年3月、ヒトラーは残りのチェコスロヴァキアを分割。チェック人居住地のベーメン地方をドイツ領に、東半分のスロヴァキア地域を分離独立させました(チェコスロヴァキアの解体)。

1939年、ヒトラーはポーランドに対して、ダンツィヒの併合とポーランド回廊での鉄道建設などの自由通行強化を要求しました。イギリスとフランスはポーランドを支援するため相互援助条約を締結し安全保障をおこないます。

独ソ不可侵条約の締結

1939年8月、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結しました。その名の通り、両国が互いに攻撃しないことを約束した条約です。独ソ不可侵条約の締結はチェンバレン首相に大きな衝撃を与えました。というのも、ドイツをソ連に対する盾として利用しようという戦略が破綻したことを意味するからです。

ドイツとしては、イギリスやフランスと戦うときにソ連を敵に回すのは得策ではありません。ソ連としても、ノモンハン事件が発生したことで極東での日本との対決を意識せざるを得ず、ドイツとの対立は避けたいという思惑がありました。

加えて、ドイツとソ連は秘密協定を結びます。内容は、バルト三国とポーランド東部をソ連が占領し、ポーランド西部はドイツが占領するというものでした。

第二次世界大戦の始まりとチャーチル内閣の成立

1939年9月1日、ダンツィヒを親善訪問していたドイツ巡洋艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインがポーランド守備隊に砲撃を開始。第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされました。イギリス・フランスはポーランドと結んだ相互援助条約にもとづきドイツに対して宣戦布告します。

ドイツ軍はポーランドとの戦いに全力を投入したため、イギリス・フランスと向き合う西部戦線では全く動きませんでした。イギリス・フランス軍も積極的に動かなかったため、西部戦線は静寂のままにらみ合いが続きます。一方、ポーランドはドイツとソ連の挟み撃ちによりわずか1か月で降伏しました。

1940年4月、ドイツ軍はノルウェーとデンマークに侵攻。ドイツ軍の北欧侵攻を阻止できなかったチェンバレン内閣は総辞職し、チャーチルが戦時内閣を組織しました。

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