臥薪編~2人の呉王、闔閭(こうりょ)と夫差の物語~
臥薪嘗胆には呉と越の2国が登場します。春秋時代の後半、呉は急速に国力を増しつつありました。その立役者が呉王闔閭です。
闔閭は隣の大国、楚から亡命した伍子胥(ごししょ)や軍事の天才である孫武(孫子)を取り立てて力を付けました。
しかし、闔閭はもう一つの隣国、越との戦いに敗れて死んでしまいます。跡を継いだ子の夫差(ふさ)は越への復讐を誓いました。
呉王闔閭、楚との戦いに勝利し覇者となる
当時の主な大国(斉・晋・秦・楚など)の国力が伸び悩む中、呉は急速な成長を遂げました。その原動力となったのが鉄と塩です。鉄は軍事力を塩は経済力を呉にもたらしました。
そんな中、楚から有力者が呉に亡命しました。伍子胥です。伍子胥は楚の平王に父や兄を殺されました。彼は呉の力を借りて楚に復讐しようと考えたのです。さらに、伍子胥は呉王闔閭に孫武を軍師として採用するよう提案します。
闔閭が出した課題は孫武に宮女を訓練させるというもの。ところが、宮女たちはふざけあって孫武のいうことを聞きません。孫武は宮女のうち隊長とした2人の首をはね、軍律を徹底させる姿勢を示しました。震えあがった宮女たちは二度と孫武の命令に逆らわなかったといいます。
闔閭はお気に入りの女性を殺され怒りますが、最後には孫武を認め将軍としました。伍子胥と孫武という強力な将軍を手に入れた闔閭は楚の攻略に動き出します。
呉王闔閭、覇者となるも越に背後を突かれ無念の死を遂げる
呉王闔閭は満を持してその都を攻めます。伍子胥の武勇と孫武の作戦に楚軍はなすすべなく敗退。呉は楚の都を攻め落としました。伍子胥の敵だった楚の平王はすでに死んでいたので、伍子胥は墓を暴いて平王の死体を鞭打ったといいます。これが、「屍に鞭打つ」の語源です。
呉の意識が楚に注がれていたため、本国は手薄となっていました。その隙を突いたのが呉の南にあった越です。越国の王、允常(いんじょう)が呉に攻め入ったとの知らせを聞いた闔閭は兵の多くを呉に引き上げさせました。そのため、呉は楚を完全に滅ぼすことはできなかったのです。
楚との戦いの10年後、越王允常が死に子の勾践(こうせん)が王に即位。闔閭はこれをチャンスと考え越に攻め込みました。まともに戦っては勝てないと考えた越の将軍の范蠡(はんれい)は、奇策を用います。死刑囚を軍の最前列に並ばせ、彼らに自ら首をはねさせたのです。この恐ろしい光景に呉軍は大混乱し、闔閭は矢を受けて負傷します。
臥薪~夫差による復讐~
闔閭の傷は日増しに悪化しました。先が長くないことを悟った闔閭は子の夫差を呼び、「父の敵は越王句践だ。必ず敵をとれ」と遺言し、亡くなります。
兵を引き都に戻った夫差は寝るとき、薪の上でました。目的はからだに痛みを感じることで片時も復讐を忘れないため。このことを臥薪といいます。夫差は伍子胥の補佐により国力を回復させ、越に対する復讐の機会を狙いました。
このことを知った越王句践は呉の力が整う前に攻め滅ぼすべきだと考えます。しかし、伍子胥が鍛え上げた呉軍は精強でした。侵入した越軍を打ち破ると句践を会稽山に追い詰めました。
滅亡の淵に立たされた句践は呉に降伏。呉王夫差は伍子胥の反対を押し切って降伏を受け入れます。そのかわり、句践は奴隷として夫差に仕えることとなりました。
嘗胆編~越王句践による復讐~
戦いの立役者である伍子胥は、「句践は不屈の闘志だから生かすべきではない。殺すべきだ」と主張します。
しかし呉王夫差は句践の「越は呉の属国となり、私自身も奴隷としてお仕えします」という言葉を真に受けて降伏を受け入れてしまいました。越王句践はこのどん底の状態からどのようにして這い上がったのでしょうか。
会稽(かいけい)の恥~降伏後、屈辱に耐える句践~~
戦い敗れ、都の近くの山である会稽山に追い詰められた句践は呉王夫差に降伏しました。この屈辱のことを会稽の恥といいます。句践の低姿勢に気を許した夫差は、句践を馬小屋の番人としたうえで越との講和に応じました。
句践の参謀である范蠡は夫差の重臣にわいろを贈って句践が帰国できるようにはかります。その甲斐あって、句践はついに越に帰国しました。越に戻った句践はひたすら呉に対して低姿勢を貫きます。
金銀財宝はもちろんのこと、国一番の美女である西施を献上して夫差の歓心を買おうとしました。その一方、句践は部屋に苦い肝をつるします。句践は毎日のようにそれを舐めては呉に対する復讐の気持ちを新たにしていました。表面的な句践の低姿勢とは裏腹に、熱い復讐の思いが句践を奮い立たせていたのです。
呉王夫差の有頂天~覇者を目指すことにこだわり、重臣伍子胥を自害させる~
国力を充実させた呉は中国大陸の中央部に進出し、ナンバー1である覇者を目指そうとしました。そのためには大国の斉を打ち破らなければなりません。
ちょうどそのころ、斉で君主が変わり政治が不安定になりました。この機会に斉を討とうとする夫差。これに猛反対したのが伍子胥でした。伍子胥は「斉は皮膚病、越は内臓病。だから、越を先に叩くべきだ」と主張したのです。
ところが、夫差は伍子胥の進言を退けて斉への出兵を決定。しかし、大国斉と戦争はすぐに決着はつきませんでした。徐々に国力を低下させる呉。対立する夫差と伍子胥。ついに夫差は伍子胥に自害を命じてしまうのです。伍子胥の死は越にとって待ちに待ったものでした。