三国時代・三国志中国の歴史

三国志屈指の名将「呂蒙」とは?無学で粗暴だった彼が一変智将となるまでをわかりやすく解説!

一念発起し、勉学に励む

孫権の言葉は、ここでようやく呂蒙に響きました。一念発起した彼は、寸暇を惜しんで学問に没頭し、やがて学者にも劣らない知識を身に着けたのです。

孫権の参謀格の魯粛(ろしゅく)は、昔の粗暴な呂蒙を知っていました。しかし、しばらくしてから会った呂蒙は、魯粛が何を尋ねてもすらすらと答えたそうです。それどころか、当時魯粛が難儀していた関羽(かんう)対策についてまで彼に策を提案し、魯粛はひどく驚き、「呉下(ごか)の阿蒙(あもう)にあらず」と感心したのでした。

これは、「以前のような呉の蒙ちゃんではない」という意味です。以前の彼を知っている魯粛からすれば、驚く以外の何物でもないことでしたが、そんな魯粛の驚きをよそ目に、すかさず呂蒙は「士別れて三日、すなわち更に刮目して相待すべし」と付け加えます。この言葉は、今の日本では「男子三日会わざれば刮目して見よ」と言われるもので、「日頃から鍛錬しているものは、三日会わなければ見違えるものです」という意味ですね。これで本当に、呂蒙は以前の呂蒙から脱皮し、一皮以上剥けた人物になったのでした。

後に孫権は、「呂蒙の若い頃は、勇猛で胆が据わっているが、それ以上ではないと思っていた。しかし、彼が学問を身に着けると、その知略は素晴らしいものとなった」と評価し、その努力を称えています。

曹操相手の戦いでも功績を重ねる

呂蒙以下、多くの部将の力もあり、孫権は江東一帯に一大勢力を築き上げることに成功しました。となると、曹操との対決は避けられない状況となるわけで、長江を挟み、両者は激突します。断続的に10年に渡って続いた濡須口(じゅしゅこう)の戦いです。

最初の戦いの際、曹操軍は40万、対する孫権軍は7万。兵力差は圧倒的でした。しかしここで、呂蒙は水上にあらかじめ砦を築き、曹操軍を翻弄することとなります。この砦のおかげで曹操軍は川を下ることができなくなり、結局、撤退することになったのでした。その後もこの砦の存在によって曹操軍は幾度も撃退されたのです。

それでも曹操はしつこく呉への勢力拡大を図り、皖(かん/安徽省潜山県付近)での屯田を開始させ、戦闘準備を開始しようとします。しかしこの地は肥沃で豊かな土地なので、呉としては魏の力を増強させるわけにはいきません。

そこで呂蒙は、慎重論を唱える諸将に反対して皖への電撃作戦を強行し、自ら太鼓を打ち鳴らして兵の士気を挙げ、見事に攻め落としたのでした。太守以下数万人を捕虜とし、その功績は並びなきものとなり、彼は虎威(こい)将軍に任ぜられます。その後も他の部将が鎮圧できない反乱をあっさりと制するなど、呂蒙は呉を代表する智将となりました。

強敵・関羽との対立から破滅に導くまで

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呂蒙の部将としての成長は目覚ましく、呉の中でもその存在感は重鎮クラスとなっていました。そんな彼の前に立ちはだかったのが、劉備の忠実なる家臣・関羽です。勇猛さならば三国志屈指の彼に対し、呂蒙は知謀で攻略にかかりました。いったいどうやって関羽を討ち果たしたのでしょうか。

関羽との対立

一時は孫権と同盟した劉備でしたが、本拠地として益州(えきしゅう/四川盆地・漢中盆地)を得ると、やがて同盟は対立へと変化していきました。

赤壁の戦い以後、孫権と劉備は荊州(けいしゅう/湖北省一帯)を手にしていましたが、劉備はその荊州の半分を自分のものとし、孫権に返還しようとはしなかったのです。このため、呉は荊州の劉備領を守る関羽を敵とするようになりました。

その一方で、呉は曹操の魏とも争っており、こちらも相手にしなくてはなりませんでした。しかし、魯粛の後を受け継いで関羽に対していた呂蒙は、孫権に「今は関羽を先に相手にし、荊州を完全に取ってから魏への外征を行った方がよろしい」と進言し、孫権もそれを受け入れました。

呂蒙、関羽征討に乗り出す

とはいえ、孫権も当初は関羽を懐柔しようとしていました。そのため、関羽に対し、その娘と孫権の息子との婚姻を申し込んだのですが、関羽は「虎の娘を犬の子になどやれるか!」ときっぱり拒絶したため、亀裂は決定的なものとなり、関羽が荊州にある曹操の拠点・樊城(はんじょう)を攻撃した時には、孫権は救援すると言いながら結局軍を派遣しなかったのです。

こうして、関羽は曹操方の樊城攻めにばかり気を取られるようになり、孫権の方には注意を払わなくなっていました。

これこそが、呂蒙の狙いだったのです。

彼は病気になったと偽り、呉の首都・建業(けんぎょう)に戻りました。その途中、同僚の陸遜(りくそん)に対し、「関羽があまりに素晴らしい統治をしているので、付け入る隙も得られなかった…」と弱音を吐いて見せました。もちろんこれも嘘です。そして建業に戻った呂蒙は、自分の代理に陸遜を推薦したのでした。孫権も陸遜も、呂蒙の策に乗ったのです。

関羽を陥れた呂蒙の知謀

呂蒙がそんなことを言い残して荊州を去ったと思った関羽は、荊州を守る兵の多くを樊城攻めに回すなど、完全に油断しました。

この間に、密かに呂蒙は荊州へと戻ったのです。白い服を着て商人に扮装し、関羽の守備隊をだまして討ち取るなど、そのやり方は実に鮮やかでした。そして関羽が「しまった」と思った時には、すでに呂蒙は関羽の同僚である士仁(しじん)糜芳(びほう)を寝返らせ、荊州南部を占拠していたのです。

また、呂蒙は軍律を徹底し、占領地での兵たちに狼藉を禁じました。他にも、捕虜とした関羽軍の兵の家族を保護し、一般の人々の心を掴むことにつとめたのです。

これで、樊城攻めがうまく行かずに撤退してきた関羽は、完全に退路を断たれたのでした。

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