関羽を討つという大きな功績を挙げる
関羽は呂蒙と連絡を取り、何とか事態を打開しようとします。しかし、使者が来るたびに、呂蒙は関羽と部下たちの家族を捕虜とし、厚遇していると答えるばかりでした。これを知らされた関羽と部下たちは動揺し、特に部下たちはどんどん戦意を失っていったのです。そしてついには逃げ出す者が続出し、関羽軍は瓦解してしまいました。
従う者もわずかになった関羽は逃走しますが、結局、孫権側に捕らえられ、斬首となります。荊州奪還と関羽の排除というとてつもない大功を挙げた呂蒙の名声は、さらに高まっていったのでした。孫権も、彼に南郡太守と1億銭、黄金500斤を与えるなど、その功績に報いました。
これからというときに病に倒れる
ところが、関羽の死後間もなく、呂蒙は病に倒れてしまいます。孫権は彼の容体を非常に気にかけ、様子を聞いては一喜一憂するほどでした。「呂蒙を治した者には千金を与える」とまで言ったそうですが、誰も呂蒙の病を治すことはできず、結局、関羽が死んだのと同じ219年、呂蒙は42歳の若さでこの世を去ったのです。
三国志演義では、呂蒙の死は関羽の呪いによるものだとされています。関羽の亡霊に取りつかれた彼は、孫権に掴みかかって呪いの言葉を吐いた挙句、体中の穴から血をふき出して死亡するという壮絶な最期でした。
立身出世のお手本となった呂蒙
呂蒙については、歴史上では孫権の一家臣であったにも関わらず、「呉下の阿蒙にあらず」や「男子三日会わざれば刮目して見よ」など、有名な故事成語の主人公として伝わっています。貧しく粗暴だった彼が、ひとたび学問に打ち込んだことでパーフェクトな人物となった成長譚は、当時も現在も人々が見習うべき手本と言えるでしょう。正史に伝わる呂蒙の姿こそ、彼の本来の姿だと思います。