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イスラム世界を支配した奴隷軍人「マムルーク」とは何者?元予備校講師がわかりやすく解説

世界各地で古代帝国が崩壊した後、日本でもヨーロッパでも中国でも、「武人」とよばれる人々が政権を握りました。日本では武士、ヨーロッパでは騎士、中国では節度使とよばれた武人が政治を執り行います。イスラム世界ではトルコ系を中心とする奴隷軍人のマムルークが強い力を持ちました。今回は、マムルークについて元予備校講師がわかりやすく解説します。

イスラム世界に登場したマムルークとは

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マムルークということばを日常的に耳にすることはほとんどないと思います。高校時代の世界史の教科書にあったなぁということを思い出されば上々といったところでしょう。とはいえ、イスラム世界の歴史を語るとき、マムルークは無視することができない存在です。イスラム世界の武士ともいえるマムルークたちは、どのようにして成立し、イスラム世界の歴史に影響を与えていったのでしょうか。

イスラム世界の奴隷制度

マムルークはイスラム世界の奴隷軍人です。そもそも、イスラム世界にける奴隷はどのような立場の人々だったのでしょうか。

イスラム教世界で法典とされる「シャリーア(聖法)」において、奴隷は主人によって所有され、結婚の自由や財産を蓄える権利、公職に就く権利などが制限された存在と明記されています。

しかし、イスラム教徒を債務不履行などの理由で奴隷とすることは非常に難しかったので、奴隷は異教徒との戦争によって獲得されました。イスラム諸国による征服戦争が一段落し、戦争捕虜が得にくくなると、売買によって奴隷を獲得することが多くなります。

また、イスラム世界において、奴隷を解放することは宗教上よいこととされ、最後の審判では天国入りが有利になると考えらました。そのため、奴隷解放が積極的に行われます。

アッバース朝とマムルーク

750年、ダマスクスを都としていたウマイヤ朝をアッバース朝が打倒しました。バグダードに都をおいたアッバース朝は8世紀に全盛期を迎えます。このころ、アッバース朝の支配領土は北アフリカから中央アジアに達しました。

アッバース朝の時代は、征服活動が頂点に達し、征服戦争が終了した時代でもあります。そのため、戦争捕虜が減少し、周辺地域から奴隷を購入するようになりました。アッバース朝は東アフリカや東ヨーロッパなどから奴隷を購入します。

中央アジアまで領土を拡大したアッバース朝は、トルコ系遊牧民たちを奴隷として購入するようになりました。トルコ系遊牧民たちは騎射に優れていたので、軍人として高い能力を持ちます。彼らはアッバース朝やその後のイスラム諸王朝の軍事力として活躍していきました。これが、マムルークの始まりです。

軍事力として組織的に育成されたマムルーク

トルコ系遊牧民の能力に目を付けたのは中央アジアの地方政権であるサーマーン朝です。サーマーン朝は9~10世紀にかつてソグド人たちが住んでいたマー=ワラー=アンナフルを支配したイラン系の王朝ですね。

サーマーン朝の支配者たちはアッバース朝のカリフから現地支配者に任命されることで地方を統治しましたが、次第に事実上の独立国へと変化します。875年、アッバース朝を宗主国とするサーマーン朝(都は中央アジアのブハラ)が成立しました。

サーマーン朝の君主たちはトルコ系遊牧民を奴隷として積極的に購入。彼らに軍人としての専門教育を施して、支配者を守るための軍隊としました。こうして組織的に育成されたトルコ系奴隷軍人(マムルーク)は、イスラム世界の王朝権力を守る存在となりました。

やがて、マムルークたちはアッバース朝をはじめとするイスラム諸王朝に「輸出」されるようになります。

マムルークと民族ごと移動したトルコ系民族との違い

ところで、マムルークとトルコ系民族とはどのような関係だったのでしょうか。まず、マムルークは基本的に個人。何らかの理由で奴隷となったトルコ系遊牧民がイスラム王朝に買われ、育成されることでマムルークとなります。

それに対し、トルコ系民族は個人ではなく民族単位でイスラム世界に進出しました。もともと、トルコの語源である「テュルク」は6世紀にモンゴル高原に君臨し中国と戦った突厥に由来します。その後、トルコ系民族は西に移動を開始しました。

中央アジアに住み着いたトルコ民族は現在でも中央アジアで国を作っています。カザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどもトルコ民族系国家ですね。

11世紀にバグダードを陥落させ、ブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝は代表的なトルコ系民族の王朝です。セルジューク朝はビザンツ帝国から小アジアを奪い、そこに定住。現在のトルコ共和国の土台を築きました。

マムルーク出身者の活躍

イスラム世界各地に売却されたマムルークは、それぞれの地で軍人として頭角を現しました。中には、奴隷身分から解放された後も軍人として功績を重ね、アミールとよばれる軍司令官にまでなるものも現れます。

9世紀後半、エジプトではアッバース朝の支配をはねのけ、トゥールン朝が成立しました。この王朝の創始者はマムルークです。また、10世紀に成立したアフガニスタンのガズナ朝(サーマーン朝から独立した政権)もマムルーク出身者が打ち立てた王朝でした。

トルコ系民族の王朝であるセルジューク朝は、マムルークに頼らずとも自前の部族組織を持っています。ところが、イスラム世界の中心地に勢力を拡大すると、君主権を守るために積極的にマムルークを購入。親衛隊として用いました。

エジプトのマムルーク

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イスラム世界全体で活躍の場を広げたマムルーク。なかでも、最も強い影響を及ぼしたのはエジプトのマムルークでした。十字軍の英雄サラディンが打ち立てたアイユーブ朝の滅亡後、マムルークは名実ともにエジプトの支配者として君臨。迫りくるキリスト教徒やモンゴル人たちとの戦いに勝利しました。マムルーク朝滅亡後もエジプトの支配階級として影響力を保持し続けましたが、ムハンマド=アリーによって滅ぼされます。

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