合法政党となるも、相次ぐ暴力闘争を展開
太平洋戦争が終戦となり、日本のあらゆる社会の価値観が変革を迎えると、政治の世界においても大きな革命が起こりました。日本国憲法が公布され「国民の自由と権利」が公的に保障されると、第19条にある「思想・信条の自由」に基づいて日本共産党が合法政党と認められたのです。
しかし戦後もアメリカの影響下にあった日本では、ソ連とアメリカの冷戦の最中にあって日本共産党は敵視されました。なぜならアメリカの敵であるソ連と繋がっていると判断されたためですね。
そうした中、1949年の総選挙で35人の議席を獲得するものの、GHQの命令によって共産党員を公職や雇用から追放するレッドパージが行われます。共産党内は混乱し党勢が失われていく中、ついに2つに分裂。所管派と呼ばれる派閥は平和的に民主的変革を達成することをあきらめ、ついに暴力闘争へと発展していくのです。
「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのは間違いだ。」
引用元 「昭和26年10月 第5回全国協議会」より
「51年綱領」と呼ばれる党の基本方針を定めた日本共産党は、「吹田事件」や「血のメーデー事件」などの武力闘争を相次いで引き起こし、騒擾事件や警察に対する襲撃事件などの暴力的破壊活動を全国的に繰り広げました。
当然、このような武力を背景にした政治主張が国民に受け入れられるはずもなく、あっという間に党勢は衰退していき、直後の衆院選と参院選では全ての候補者が落選してしまいました。
さらに1952年に破壊活動防止法(破防法)が制定され、武力闘争を基本方針としていた日本共産党は公安調査庁の監視対象となりました。現在も解除されていません。
こうした逆風の中、1955年についに方針転換に踏み切り、武力闘争路線の放棄を宣言しました。「これまでの混乱や暴力行為は一部の指導層の指示によるもので、党中央組織は関係がない。」と断じ、そのスタンスは現在も堅持しています。
「日本共産党は危ない」と現在に至るまで警戒されているのは、過去のこういったテロまがいの行動があったからこそ。そういったイメージを払拭させることは並大抵ではないでしょう。
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その後の党勢拡大と現在
その後、日本共産党はソ連や中国に干渉されない「自主独立の党」への道を歩むことになります。ソ連が介入したチェコスロバキア問題やアフガニスタン侵攻などを強烈に批判し、中国に対してもベトナム侵攻の愚挙に対する批判を繰り返すなど、中ソの思惑にとらわれない独自の動きを見せました。
宮本顕治委員長・不破哲三書記長らの体制になってからは、総選挙ごとに確実に議席を増やし、1972年衆院選では38議席を確保、1979年には結党以来最大の41議席を確保するまでに党勢が拡大しました。
また民主的改革というスローガンに代わって「平和の党」という位置づけを基本方針とし、「非核・反核」「護憲」「労働者の権利保護」などを原則として支持を広げたのです。
その後は議席数の増減を繰り返しつつ現在に至りますが、自民党をはじめとする保守勢力の対極にある存在として「唯一の野党」を標榜しています。
2000年代の志位体制になってから以降、二大政党制への期待感や安倍一強体制などによって、党勢は徐々に衰退を余儀なくされ、共産党員の高齢化なども相まって変革期を迎えているのが現状でしょうか。
共産党が独自路線を歩むのか?それとも反自公で一致して野党連合体制を築いていくのか?これからに注目したいと思います。
日本共産党の政治的スタンスについて
さて、ここからは現在の日本共産党が掲げる政策や、政治的スタンスについて見ていきましょう。自民・公明政権の政策とどう違うのか?また日本共産党の構想は可能かどうか?など、右や左にとらわれない目線から解説していきたいと思います。