アメリカの歴史独立後

冷戦直後に起きた世界規模の戦争「湾岸戦争」をわかりやすく解説

イラクのクウェート侵攻

image by PIXTA / 47529673

1991年8月2日。準備を整えたイラクがクウェートに侵攻を開始。

10万人の機甲師団が30分の1しかいないクウェートに侵攻した事実はまさしく寝耳に水の状況であり、クウェートはたちまち支配されることになります。

その後クウェートにはイラクの傀儡政権が誕生。実質的にイラクの支配下に置かれることになったのです。

これに対してアメリカのジョージ・H・ブッシュはサウジアラビアに軍を派遣することを決定。一気に緊張は高まります。

イラクのクウェート侵攻に対して国際連合の安全保障理事会はクウェートからの即時撤退を命じる決議が採決。さらにはイラクに対して全面禁輸を行う経済制裁が取り決められました。

こうして戦争はイラクとクウェートだけではなく、全世界を巻き込むことになるのです。

サウジアラビアの駐留

アメリカのサウジアラビア駐留は中東の各国に対して衝撃を与えます。イラクからしたらアメリカはイラン・イラク戦争で協力した仲であり、このクウェート侵攻も黙認してくれると踏んでいました。さらにはサウジアラビアからしてもイスラム教の聖地を有するサウジアラビアに異教徒のアメリカの軍隊を置くことは耐えがたいことでもあったのです。

しかし、サウジアラビアがイラクとの対立を深めていることを受けるとそんなことを言っている暇はありません。

サウジアラビアはクウェートに続いて侵略されることを恐れており、アメリカ軍の駐留を承認。

さらにはアメリカはいい形で中東の国々をなだめるために中東諸国の軍隊と各国の軍隊の有志を求めるという形で行うことに。結果的にはイラクに攻め入るために多国籍軍が結成されることになりました。

こうして集まった多国籍軍の総数はイラク軍を超える50万人がイラク・クウェート国境付近に進駐を開始。アメリカを含めた多国籍軍がついにイラクへ戦争を挑むのでした。

砂漠の嵐作戦

1月17日に、多国籍軍は砂漠の嵐作戦を開始。この作戦はイラクの各都市に対して爆撃を行うものであり、この作戦開始によって事実上戦争は行われることになったのです。

イラク軍はクウェートにて戦闘が行われるものだとしており、イラクを攻撃されたことはイラクは出鼻をくじかれることになりました。

しかしアメリカ空軍の攻撃はやみません。アメリカは爆撃機B-52から爆撃を継続して行われることになりその様子はCNNによって生中継により世界に実況報道されました。

この爆撃によってイラク軍の防空システムは完全に破壊。連合軍の一方的な攻撃が行われていくことになりました。

戦争はゲーム?

湾岸戦争はまさしく新世代を象徴するような戦争でした。湾岸戦争の様子はテレビにて生中継されており、さらに日本でニュースをやっていた時に夜戦用のミサイル爆撃が行われたり、地対空砲が飛び交う夜空の映像などが有名ですね。さらにこの戦争からGPSのナビゲーションが実用化されるようになり、アメリカの戦闘機や爆撃機の様子はまさしくゲームでやったシューティングゲームそのもの。

この結果遠く離れた地域では戦争がゲーム感覚でつたわることとなりこの湾岸戦争は冗談めかして「NINTENDO WAR」と呼ばれたこともあったそうです。任天堂からしたら困ったことなんですけどね。

砂漠の剣作戦

空爆が行われたことによってイラク南部に設備されてあった軍事施設はほとんど破壊。これを見てアメリカは次の段階へと進んでいくことになります。アメリカをふくめた多国籍軍は砂漠の剣作戦に突入。クウェートを包囲する形でイラク領に侵攻しました。

一方のイラクはというと空爆によって軍事基地がほとんど破壊されたことによって士気はほとんどなくなっており、武器もほとんどなくなってしまっていたためイラク軍はほとんど何もできず一方的に撃破。次々と降伏していくことになります。

イラク軍はせめてもの報復としてサウジアラビアを攻撃することにするのですが、これまででした。イラクは多国籍軍の攻撃から100時間後にイラク軍は撤退開始。2月27日にイラクに支配されていたクウェートは解放はされることになり、湾岸戦争は多国籍軍の一方的勝利に終わったのでした。

湾岸戦争の終結と終らない対立

多国籍軍の圧倒的勝利で終わった湾岸戦争。しかし、アメリカはここでイラクを完全に潰しては色々な問題が起こるとしており、イラクに対して制裁を行いつつ暫定休戦協定が結ばれることになりました。

そしてその暫定休戦協定の締結後から約1ヶ月後の4月3日に国連で安保理決議が採択。

内容は「イラクが侵攻したクウェートへの賠償」「イラクが持っているとされている大量破壊兵器と生物化学兵器の廃棄」「国境の尊重」「抑留者の帰還」の主だったものは四つ。

フセイン大統領もこの決議に合意したことによって湾岸戦争は正式に終結することになりますした。

その後約5年後にアメリカはもう懲りたであろうとしてイラクに対して石油の取引を一部許可する決議を行い、イラクの問題を解決に導こうとしたのですが、フセイン大統領は全面的に全面解除以外に受け入れられないと拒否。

さらには一番の重大事項である大量破壊兵器の破棄についてもイラクは核開発防止を目的としたまた国際原子力機関(IAEA)の査察を拒否。イラクが十分に決議を履行していないとしてアメリカは再びイラクに対して長期間にわたる経済制裁を受けることとなりました。

そしてその対立は終わることはなく、時代はは2006年のイラク戦争を迎えることになります。

次のページを読む
1 2 3
Share: