室町時代日本の歴史

日本文化の原点である「室町文化」はどんな文化?わかりやすく解説

東山文化

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東山文化は15世紀後半から花開いた文化のことで、足利義政が応仁の乱後に京都の東山に慈照寺銀閣を建立したことから名づけられました。

この時期の文化は、東山山荘に象徴されるところから東山文化と呼ばれます。

禅の精神にもとづく簡素さ、枯淡の味わいと伝統文化における風雅、幽玄、侘を精神的基調とする東山文化として庶民にも浸透していきました。

つつましいながらも深みのある、生活に根ざした文化であり、床の間に飾る掛け物や生け花、茶の習慣、畳座敷でくつろぐ生活などがこの時代に始まりました。東山文化は現在の我々にとって身近な文化と言えるでしょう。

わびさびの生まれ

東山文化の神髄といえば今の日本の文化にも受け継いでいるわびさびでしょう。わびさびを簡単に説明すると素朴さや静寂に包まれた時に感じる美しさのことを指すのですが、これまで豪華であった日本の文化と比べると若干異なるところになります。しかしこのわびさびが現在の日本の文化に強くねづいていくことになるのです。

建築

この時代には書院造というスタイルの建物が作られました。

これまで日本の邸宅は鹿苑寺金閣のように寝殿造が基本だったのですが、書院造は木の板の代わりに畳を敷いて部屋の間をふすまで仕切っていました。これは現在の和室と同じ作りとなっていますね。

また書院造には掛け軸とか花とかを飾る床の間もあり、その棚は違い棚という2枚の板を使った高さの違う棚も特徴です。少し豪華な和室になると今も見かけますね。

つまりいまも私たちの身近にある和風な家の造りというのは、だいたいこの書院造で生まれたものなんです。

書院造の代表的な建物はやはり慈照寺銀閣。書院造をベースとして足利義政が隠居するために建造した建物です。ほかにも有名なのが応仁の乱にて東軍の総大将となった細川勝元が建立した龍安寺。この寺は白い砂で山や水といった自然を表現するという枯山水の代表格として知られています。

庭の様式

書院造では禅の心を表す庭園様式も発達していきました。禅宗の寺では禅の世界の精神を表すために岩石と砂利を組み合わせて象徴的な自然をつくり出した枯山水が発達。龍安寺が代表格です。

そんな庭園造りですが、注目したいところがこの当時の庭園造りに関わった人のほとんどがこれまで河原者と呼ばれていた差別階級の人々だということ。

文化というものは基本的には高貴な身分が作っていったのですが、ここから東山文化ではそんな人たちも活躍していき、例えば慈照寺銀閣の庭園を担当した善阿弥であったり、その息子である小四郎が作庭家として活躍しました。

どうしてそんな人が重用したのかというとやはり銀閣を建てた足利義政がそんな文化人を信頼していたというところにあります。義政は政治は応仁の乱を起こすなどダメダメでしたが、東山文化の発展に貢献した人たちには芸能の分野の称号である阿弥号をを与えて将軍の身の回りの世話を行わせる同朋衆に就任させていました。

茶道の広まり

日本の文化の代表例の一つとなっているのが茶道。日本がお茶を飲む文化はこの頃から広まっていきます。

お茶が日本に入ってきたのは鎌倉時代の頃。禅宗が発達としていくとともに眠気覚ましとしてお茶が重宝されており、臨済宗の開祖である栄西が日本にお茶を飲む文化を伝えることになり、『喫茶養生記』で茶の種類や製法、効能などを記しました。

そこから禅宗の僧侶たちを中心にお茶が飲まれていくことになるのですが、そして時代が下っていくと東山文化の時に禅の精神を取り入れた書院の茶と呼ばれる茶会が開かれるようになります。

しかし、この茶会はいまみたいに質素な物ではなく、どちらかと言えば豪華な道具を使って芸術品を鑑賞しながら茶を飲むという鑑賞会みたいなもの。さらには闘茶と呼ばれるお茶の産地を当てるゲームが広まったことによって茶会は宴会みたいなわちゃわちゃとしたものになる事態が訪れることになります。

そんな茶道でしたが、今みたいな茶道が生まれるのは東山文化に入る少し前、村田珠光というが広めていくことになる。

村田はお茶を宴会みたいにするのではなく、禅みたいに質素で詫びさびを大事にすることが大切だということを主張していき、現在の茶道の基本分野を大成させていきます。

さらに時代が降って戦国時代に入ると織田信長と豊臣秀吉に気に入られた千利休が茶道を大成。現在みたいな質素でわびさびがある茶道が確立されたのです。

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