生け花の発達
茶湯の他に火道の原点となる生花もこの東山文化で生まれていくことになります。
生け花という文化自体は仏前にお花を供える文化があったため一応習慣づいてはいましたが、文化としての側面はあまり持ち合わせていませんでした。
しかし、中国から大量の陶磁器が届き中国の器を綺麗に揃えるために花を飾る行為が行われ始めていきます。さらには書院造の発達によって床の間に生け花を飾る華道が発達していくようになり、投げ入れの技法を用いる生け花が大成されていくようになったのでした。
生け花の重要人物といえば同朋衆の立阿弥や京都頂法寺の池坊専慶が立花の名手として知られており、特に池坊は華道の一大流派として知られていくようになるのです。
絵画の発達
雪舟は明に渡り水墨画を学び、日本の水墨画を完成させたんだ。
小さい頃から絵が大好きで死ぬまでずっと絵を描き続けた雪舟。自分の涙でネズミを描いたとエピソードがあるほどの天才として知られています。
雪舟は室町時代から戦国時代に移行する時の人物であり、雪舟は各地を歩きながら最終的には山口を支配していた守護大名大内氏に保護されることになったのです。
そこで雪舟はこれまで中国風であった水墨画を日本独自のものに変貌させていき、『秋冬山水図』や『天橋立図』などといった絵画を大成させていきました。
一方で水墨画以外にも東山文化では絵画が発展していくことになります。
特に日本独自の大和絵がさの発展は著しく、水墨画と大和絵を融合させた土佐光信は土佐派と呼ばれる絵画の一派を大成させ、狩野派は室町時代から明治時代まで400年以上にわたって日本の絵画の中心となる派閥となっていきました。
土佐光信の代表作として「清水寺縁起」、狩野正信の代表作として「周茂叔愛蓮図」、狩野元信の代表作として「大仙院花鳥図」が知られています。
庶民の文学作品の発達
東山文化では庶民たちの文化も広まっていくことになります。その一つの分野が文学作品でした。
室町時代には絵の隙間に物語を描いてストーリーを作る御伽草子が成立。『一寸法師』や『浦島太郎』といった昔話はこの御伽草子から来ています。
御伽草子では庶民たちの教訓になるお話からためになるお話までたくさんあり、江戸時代には室町時代ちたくさん作られた御伽草子をまとめた『御伽文庫』が出版され世の中に広く知られました。
また文学とは関係ないのですが今日なお各地で盛んに行われている盆踊りもこの時代から発達していきます。
鎌倉時代には時宗の一遍による念仏踊りが広まっていき、それが次第に発達していき、都市や農村で華やかな姿をした人々が踊る風流踊りが定着。さらにないろんな地方の踊りが結びついて最終的には日本各地で行われる盆踊りへと広がっていくことになります。
室町時代では下克上とはいかないものの、農民たちが非常にエネルギッシュであふれており、権力者たちに対して惣村を立ち上げたり一揆を起こしたりするなどの活躍も見られていくようになりました。
連歌の発達
平安時代には和歌が非常に発達していきましたが、鎌倉時代や室町時代に入ると和歌をそのまま読むのではなく、五七五と七七を互いに詠み合う連歌という形式に変わっていくことになります。連歌は百句を1組にするのが一般的であり、非常に長い作品でもありました。
しかし、この連歌は地方の武士や農民に大ヒット。特に連歌を詠む専門の連歌師が地方へと遍歴しており民衆の間でも愛好されて流行しました。
連歌では東山文化の時代に連歌師の宗祇が芸術性の高い正風連歌を確立。『新撰菟玖波集』を撰集。また宗祇が弟子の肖柏・宗長らと吟じた『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』は連歌の傑作として後世の規範となりました。
ー方これに対し、宗鑑はより自由な気風をもつ俳諧連歌はいかいれんがをつくり出し、『犬筑波集』を編集し自由な気風を見せていくようになります。
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公家の活躍
東山文化は武士が中心に行われていましたが、何も公家もは何もしていなかったわけではありません。
室町時代中期になると公家の政治的権威はほとんどなくなってしまい、さらには応仁の乱によって京都が焼け野原となると公家たちは京都から逃れる人もいれば経済的に困窮したため文化の担い手としての道を歩み出す人も多くいました。
特にこの当時積極的に行われていたのが古来の朝廷の儀式をまとめた学問である有職故実。
また、平安時代に編纂された古今和歌集といった勅撰和歌集の研究もなされていました。
そんな公家ですがこの当時の公家で一番の有名人といえば一条兼良。一条兼良は応仁の乱で燃えてしまった古文書を一から復元し始めたり、さらには朝廷の年中行事を解説した『公事根源』や『源氏物語』の注釈書である『花烏余情』を執筆。朝廷で失われつつあった多くの研究書· 注釈書を著したほか、家庭教師として教育を行なっていた足利義尚にささげた『樵談治要』などの政道論も残しています。ちなみに、彼の子孫は土佐国にて戦国大名にもなりました。
和歌の秘密奥義
公家たちが情熱を注いで行われた学問の分野ですが、特に積極的に行われていたのが古今和歌集でした。
古今和歌集は日本で初めて編纂された勅撰和歌集として和歌の聖典として重んじられており、その解釈の仕方などはステータスとして、朝廷から秘密にされていました。
ではどのようにして伝えるのかというと口伝え。いわゆる古今伝授という秘密奥義みたいな形で口頭で伝えられていったのです。
この古今伝授は東常縁によって作られ、連歌師の宗祇そうぎによってまとめられ公家に伝達。その後戦国大名の細川幽斎が受け継ぎ江戸時代を迎えることになるのです。
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