日本の歴史昭和

戦前の日本で大きな影響力を持った「東條英機」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

サイパン失陥により東條内閣総辞職

1941年に首相となった東條は陸軍大臣と重要閣僚である内務大臣も兼任し、国内の治安維持権を掌握しました。その後、文部大臣や商工大臣も兼任し権限を首相である自分自身に集めます。また、内閣の仕組みを改め、農林省と商工省を合わせた農商務省や軍需省や逓信省と鉄道省を合わせた運輸通信省を設立するなど戦争遂行のため、中央省庁を再編。さらに1944年に陸軍参謀総長も兼任することで、軍と政府のトップとなりました。

東條は、統制派の主張でもあった総力戦体制を自分の手で実現させたといってもよいでしょう。ところが、戦局は一向に好転せず、アメリカ軍有利に展開します。

1944年6月、東條内閣が絶対国防圏としてサイパン島がアメリカ軍の攻撃にさらされました。攻撃するアメリカ軍の半分の兵力しかない日本守備隊は、制空権・制海権を失った状態で孤軍奮闘したあげく、全滅します。東條内閣はサイパン失陥の責任を取り総辞職しました。

東京裁判(極東国際軍事裁判)

1945年8月、日本はポツダム宣言を受け入れ降伏しました。ポツダム宣言第10条には、戦争指導者の逮捕など戦争犯罪人の処罰が定められています。連合国は終戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)を開廷しました。

東京裁判では、「平和に対する罪」を問うA級戦犯とされた人々の裁判が行われます。「平和に対する罪」は、侵略戦争を計画・準備・実行したことの責任を問うものでした。東京裁判はアメリカの主導で行われます。

東京裁判において、東條は昭和天皇が戦争に消極的で、内閣の意向にやむなく同意したと証言。太平洋戦争開戦の責任は、開戦時の総理大臣である自分自身にあると主張しました。その甲斐があってか、昭和天皇は東京裁判で戦争犯罪を追及されません。1948年、東條に下された判決は有罪。絞首刑が宣告されました。

東條の死刑執行と戦争責任

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1948年12月23日、巣鴨拘置所(通称巣鴨プリズン)で東條の絞首刑が執行されました。戦争責任の全てが東條にあるかといわれると、大いに疑問があります。戦争中、東條に大きな権限が集まっていたことは確かですが、ナチス・ドイツの総統ヒトラーほどの独裁権はなかったといってよいでしょう。多くの戦死者を出した太平洋戦争終結から70年以上の月日がたっている現在、戦争がなぜ始まったのか客観的な検証と確認が必要ではないでしょうか。

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