幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

維新期に舵取り役として活躍した「松平春嶽」この幕末四賢侯の春嶽の人生を解説

ちょっと雑学

安政の大獄で春嶽は隠居謹慎でしたが、近侍御用役に任命された橋本佐内は本来遠島のはずが斬首となります。親戚の朧勘蔵の邸に幽閉・謹慎を命じられた後の尋問で、「藩の命令だ!」と主張したことで、井伊大老の逆鱗に触れたのです。安政6年10月7日に伝馬町牢屋敷で死罪となりました。悪名高い井伊大老はただ自分の幕政を正義と貫いた、慶福側の家臣にとってカッコいい上司的存在だったのかも?

3.春嶽VS大久保利通

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井伊直弼が暗殺されると、運気は春嶽へと向かいます。斉彬を亡くした薩摩藩が動き、慶喜を若い慶福の将軍後見職にした上で、春嶽を大老へと訴え見事に復活させました。復活後は、幕府と雄藩の調整役として奔走します。春嶽VS大久保利通の、威信を賭けた駆け引きを見てみましょう。

3-1春嶽の復活と大政奉還

春嶽は文久2(1862)年4月に幕政に復帰し、7月に政治総裁職を担いますが翌年3月2日に辞職します。その間に、慶喜と幕政改革に着手。京都守護職を設置し陸奥会津藩主松平容保を守護職に置きました。

慶応2(1866)年7月20日に家茂が大坂城でみまかります。慶喜が12月5日に将軍宣下を受け、15代将軍になりました。薩長が倒幕路線に進むことを懸念していた土佐藩の山内容堂は、大政奉還を提案。春嶽も賛成し慶喜に進言します。大政奉還を飲んだ慶喜は、慶応3(1867)年10月14日に政権を明治天皇に奏上し、翌日大政奉還が勅許されました。

3-2新政府樹立宣言

慶応3(1867)年12月9日に薩摩藩を中心とする、5000の軍勢が京都御所を突如として囲み王政復古のクーデターを起こします。御所では、公家の岩倉具視と薩摩の大久保利通と西郷隆盛が徳川幕府の廃絶を訴え、天皇中心の新政府樹立を宣言したのです。

その夜に、王政復古の具体化のため、新政府初の小御所会議が行われます。ここで土佐藩の山内容堂が、「大政奉還の功労者慶喜が会議にいないとは何事だ!」と、会議開始早々に一喝します。それに続き、イギリスの議会制度を思い描く春嶽が「250年に渡り将軍として国を治めた徳川家の実績や天下公共の論を尽くす意味でも慶喜を一員に加えるべき」と激を飛ばしました。

徳川勢力の完全排除を目論む岩倉が、「新政府には失政の大罪を犯した慶喜の参加を認めない」と反論したのです。薩摩の孤立を恐れた大久保利通は、妥協案として「慶喜の官位降格と領地返上」を提案します。もし、「拒否すれば朝敵とし断罪する」と、薩摩の強さを含ませた要求付きでした。

3-3幕府と雄藩の狭間で

「大久保案を、慶喜に納得させなければ、徳川と薩摩との戦争が始まるのは明白」と、春嶽は使命感に駆られます。12月10日に徳川家の拠点「二条城」で、春嶽は説得に挑みました。新政府に参加できれば徳川の影響力を保てると踏み、慶喜は大久保案を飲んだのです。

でも、「天下の徳川の領地を薩摩の画策で返上するのは、徳川家臣としてのプライドが許さん。直ちに御所を囲み戦おう。」と激しく抵抗したのです。そんな時に春嶽は、慶喜に家臣たちの怒りが鎮まるまで、京を離れ大坂城に移るよう提案します。王政復古から4日経った12月12日に、慶喜と1万の家臣たちは京を離れたのです。

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