幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

維新期に舵取り役として活躍した「松平春嶽」この幕末四賢侯の春嶽の人生を解説

2-2将軍選びは血筋より実力!

井伊大老は、将軍はお飾りの方が政治は上手くいくと「慶福」を推薦したのです。彼は「守旧派」の代表で、家康時代から続く「血筋第一!無能でも将軍に」との考えでした。

約250年も前に作られた家康の考え方に、日本の危機を感じていたのが春嶽たち。でも、慶喜は父斉昭に「自分を将軍継嗣に、推そうという動きがあるが、甚だ迷惑。辞退したい」との書状を送ります。でも、父は「この機会を逃してなる物か…。」と引きません。その後、和親条約が成立し、継承問題は影を潜めます。

ちょっと雑学

家康はお家騒動で徳川が滅びないように、おバカな将軍を助ける「老中(5人)合議制」を作ったのです。これは、譜代大名から名実ともに秀でた人材として選ばれた、5人の老中の合議で政治を動かすというもの。3代将軍家光から「将軍はお飾りでよい」との考え方になったのです。8代将軍吉宗の後継ぎには、利発な次男宗武や四男宗尹より、不適格といわれた長男家重が後を継いでいます。

2-3井伊直弼VS松平春嶽

「将軍のためなら自己犠牲も厭わない」と腹の座った井伊直弼にとって、血筋より頭脳明晰な将軍をとの春嶽の考え方は「邪道」だったのです。春嶽は、「井伊の考えはもはや古い!井伊は幕府を私物化している。先には戦争しかない!」と感じていました。

春嶽は、譜代大名だけでなく外様大名とも手を結び、能力の高い将軍を置かなければ幕府の危機は乗り越えられないと踏んでいたのです。現に、薩摩藩の島津斉彬や宇和島藩伊達宗城らと密に連絡を取り合い、勅許を経ずに開国条約を結んだ「違勅問題」をたてに井伊を攻め立てています。

でも、井伊大老ら守旧派は、外様が幕政に口をだすこと自体にプライドが許さなかったのです。春嶽は、「国家の危急!」と大名の登城日でもないのに、江戸城に押し掛ける前代未聞の行動にでます。これは、一橋が「獅子身中の虫」と確信するのに十分。井伊大老は「不時登城」を理由として、1858年7月5日に春嶽と斉昭を隠居させました。

2-4処分された春嶽

幕末四賢侯の一人で盟友の島津斉彬の急死が、敗北の最大の原因でしょう。本来なら、斉彬と共にクーデターを起こしてでも、一橋派を勝利に導く予定でした。春嶽は江戸で5年間の謹慎となったのです。この処分は、当主の座から排除するという死罪に次ぐ重い刑でした。

井伊大老が圧勝し14代征夷大将軍には、徳川家茂(慶福)が継承します。反対派を必要に弾圧した「安政の大獄」が災いし、井伊大老は桜田門外の変で暗殺。後に春嶽は、誠実な人柄を買われ復活を果たします。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: