幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

維新期に舵取り役として活躍した「松平春嶽」この幕末四賢侯の春嶽の人生を解説

3-4知恵者春嶽は徳川を救えるのか?

これを聞いた薩摩は、「大坂を徳川勢に抑えられてはマズイ!態勢を立て直して、大坂港を抑えられたら、薩摩に食料や武器などの輸送ができなくなる」という不安が一気に広がります。京にいた諸藩たちも「慶喜にもっと厳しい刑を与えるべき」と、新政府軍に建白書が届けられました。実は、大坂に拠点を移すことで、慶喜方に運気が向いたのです。流石、春嶽!

更に、「もう、徳川の家臣たちの怒りは、慶喜でも抑えられない。このままでは、戦になる」と、岩倉を揺さぶります。顔面蒼白の岩倉に「慶喜の官位は降格ではなく自ら辞退したことにする。また、領地返還も慶喜から新政府へ寄付に変える。」という提案したのです。この2つの案を認めさせれば、慶喜の新政府軍入りは決定的でした。

3-5公家と大名のみの新政府会議

12月23日に、大久保利通や西郷隆盛を省いた、公家と大名のみの新政府会議開催に成功します。でも、大久保は春嶽の動きを察知し、「徳川は領地を返上する」から一字一句内容変更は認めてはならないと、公家衆に密書を送ったのです。

春嶽が岩倉に話した2案を会議でだすも、大久保から密書を受け取った公家たちは首を縦に振りません。春嶽の2日に渡る激論の末、この2案を通せば慶喜を説得できる。飲まなければ、徳川追討の兵を挙げると約束し認めさせたのです。

『慶喜は、官位を辞退し、新政府への財源は領地内より天下の公論を持って確定する』で決着しました。この文章には、大久保のこだわった「領地返上」の言葉はなく、更に「徳川」の文字も消えているのです。新政府への領地提供は、徳川領に限らないと変わっています。

4.春嶽最後の輝き

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慶喜の新政府入りが叶う後一歩で、戦争が始まります。春嶽は、封建制を廃止し、日本をイギリスのような近代国家にしたいと願っていたのです。ここで春嶽の願いは、シャボン玉のように弾けます。江戸幕府の終焉をみとり、新政府が新しい時代を築くのを見届けた後に、春嶽は隠居しました。春嶽の末路をご紹介します。

4-1春嶽の新政府プランの崩壊

春嶽は、慶喜が子供のころから知っており、さまざまな激論を交わした信頼し合える仲だったのです。もちろん、慶喜の英明も認めています。春嶽が勝ち取った、「官位辞退と領地献上」を慶喜に伝え受諾を求めたときのこと。

江戸で燻っていた徳川の家臣たちが、薩摩藩邸に砲撃し藩邸は全焼。100人の死傷者がでたのです。でもこれは、西郷隆盛の策略にまんまと乗せられた結果でした。西郷は浪士たちに乱暴な行為をさせ、江戸城二の丸を放火したことに、徳川方が怒り報復行為にでたのです。西郷にまんまと嵌められた徳川家臣たちが、幕末期江戸の最後の砦「彰義隊」でした。

春嶽の耳にもすぐに届きます。更に、春嶽を呆然とさせる自体が起こりました。怒りに我を忘れた徳川軍が大坂城から京に向けて進軍したのです。この行為は、春嶽が苦労して慶喜を新政府入りへこぎつけたのに、白紙に戻すことに十分で薩摩の思うつぼということ。もう、この時点で慶喜に、徳川の家臣たちを止める力すらないことを周知させたのです。

大久保は徳川を倒せると、岩倉を通して公家たちの説得を始めます。春嶽は、諸藩の大名や重役たちと、徳川の軍勢を大坂城へ引かせる手立てを話し合いました。その時、「徳川軍の上京を止められなければ、朝敵と見なす。」との命令が、新政府からくだされたのです。

4-2鳥羽・伏見の戦いの勃発

打開策を見いだせない春嶽は、薩摩と徳川の間に越前の兵を置いても、戦を止めるとの決意をします。1月3日5時ごろ、薩摩から鳥羽と伏見が砲撃されたのです。春嶽が戦を止めるべく参内したときには既に、大久保が薩長を官軍にと公家たちを説得しています。

春嶽と大久保のどちらが、多くの諸藩を味方に付けるかという、両者の最後の対決も始まったのです。公家たちは御所に戦火が及ぶのではと右往左往し、天皇を比叡山へ退避させようとしており必死に春嶽は止めますが、皇族仁和寺宮の軍装した姿で「徳川を討つ」との言葉を発します。薩長軍が官軍となった瞬間です。

山内容堂や春嶽たちが猛然と抗議するも叶いませんでした。西郷から大久保へ薩長軍緒戦勝利の知らせが届いたと公家たちが知り、仁和寺宮を司令官とする官軍結成が決定的になったのです。大久保に負けた春嶽は、仁和寺宮を補佐する参謀主任を、せめてもの抵抗とし辞退しています。

2日後の慶応4(1868)年1月5日午前8時に、鳥羽・伏見の薩長の連合軍が錦の旗を掲げました。これは徳川が朝敵になったということです。土佐など有力諸藩が次々と官軍に参加し、徳川勢は総崩れとなり敗北。王政復古から27日目にして、春嶽の新政府プランは完全に潰されました。

国許の松平茂昭宛へ送った書状に

「偽りの勅令により官軍が大勝。徳川勢は伏見に敗れ飛散す。憤懣に耐え難く候」

と書いていました。

4-3春嶽の晩年

鳥羽・伏見の戦い後、江戸城にいた慶喜に追討令がだされました。新政府の要職に就いていた春嶽は、内戦停止を叫び続けます。新政府から新たな元号候補を考える命を受けた春嶽は、中国の古典『易経』から「明治」を提案し、見事に採用されました。「聖人君子が天下によく耳を傾ければ、世は明るく、平和に治まる」という一節からです。

明治3(1870)年に、新政府の強引な姿勢に見切りを付け、政府の職を退きます。その後は春嶽という号で執筆活動をし63歳でこの世を去りました。

維新の歴史が変わった瞬間に中心人物だった「春嶽」の新政府構想は幻で終わった

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663highland投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, リンクによる

井伊大老にも大久保利通にも敗北し、勝運に恵まれなかった春嶽。決して彼は、「無能」ではありません。古い物を一掃した新しい時代を日本が必要としたから、春嶽のプランが崩壊したのでしょう。春嶽が思い描いた、新旧の結束により作られた明治も見たい物ですね。

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